あの丘で

今日、ここ本当に何度も何度も書き直した。
いろいろうまくいかないけど、
いかにも俺って感じだよな。
どうしようもないと思う大っ嫌いな心だけど、大事な俺の心だよこれ。
まぁ、しょうがない。



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グスタフ・マーラーという作曲家が最後に完成させた交響曲第9番。
この曲のとらえ方として、作者は悲劇的な人生を嘆きつつ、持病による自分の死の恐怖に震えながら作曲した。その思いや嘆きが色濃く反映されているのだという考え方が根強くよくあると思うんです。
自分もそう思っていました。
どこかのレビュー欄なんかをみるとそれを感じて涙できないものは愚か者だ見たいなことを叫んでいるおやじがいたりして・・

高度に複雑で、深く、尋常でない音楽だという考えは今も変わりません。
でも最近私は、この時彼の心は絶好調で、こんな素晴らしい曲を短期間で生み出し、そのことに彼は感動し、興奮し、ワクワクし、笑いが止まらないような絶頂にあった可能性があると考えています。
こんなことを書けば馬鹿だと笑われるかもしれません。
それでいいです。


彼のように神に選ばれたような芸術家とその作品は、具体的な事実が仮に作曲のきっかけになったとしてもそんなものは超越したところにあるんだと私は思うんです。

高校生のころ、授業中に柴田南雄の「グスタフ・マーラー」という本を読んでいました。
交響曲第9番の章で柴田が4楽章に亡き子をしのぶ歌の第4曲が引用されていると指摘していた。
歌詞のドイツ語を理解できる必要はあるだろうか?と書いてあるのを見た記憶があります。
この曲を聴いている自分を全否定されるのかと思った。
そのわりには結局どんな結論だったかは忘れてしまいました。

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歌曲「亡き子をしのぶ歌」第4曲の終わりのところ・・
死んでしまったわが子を思う親、
「あの子はあの丘へ散歩へ行っただけだ!
私たちが追い付けばいいんだ!」
でしたっけ?

この時代はみんな経験したこでもあると思うのですが、マーラーも実際わが子をなくしています。
そのことが作曲に少なからず影響を与えていると考えるのは自然なことでしょう。

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交響曲第9番の最後のページ
この音楽は間違いなく人が死んでいく場面です。
このバイオリンの旋律がその引用だとすれば、
上記の歌詞を思い出してみれば・・・
衝撃的ですよね。
死を悟った者・・・もうすぐ・・・やっとあの子に会える・・・

しかし、だからと言って一本調子にこの箇所をマーラー個人の人生体験とその告白みたいな解釈で聴くのは私は違うと思う。

この旋律、下降する途中でふっと休符になります・・すべての音が消え・・
この休符は大変印象的です。
この休符の後、何かが変わる。

私も人が死んでいくところを見たことがありますが、私たちには見えない何かを目を見開いてみていましたよ・・
光か何かが迎えに来るんでしょうかね・・

ここはなにか、普通と違う光に満たされている気がします。

柴田はこの旋律が楽章中に3回現れると言っていたと思う。
譜例はなかったと思う。
最初は第2ヴァイオリンに隠すように・・というのが印象に残っています。

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ここかな・・
対向配置じゃ隠れないし、
隠すようにって思い切りffじゃんか・・なんていったらいけないんでしょうね。

また脱線すると90年代になんでか忘れたけどマーラーについて書いた本が乱発されていたことがあります。
そのうちの一冊を読んでいると9番の解説で柴田の言葉が丸パクリされていた・・
しかもこの著者それがどこだかわかってないなという感じだった。
この曲を聴くわけでもなく、原稿依頼されて適当に資料を読んで適当なことを書く・・程度だったんでしょう。
あれは読んだ時に情けない気分になった。

私的にはこっちも気になります。
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伴奏音型?転回形?・・
これが、

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第3楽章の中間部や

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4楽章にも出てくる。
どちらかというと私はこちらの方が耳に残ります。
なにかを訴えていると思う。

なんかまとまってないですね。
このあたりは、気持ちが曲に向いたときにもう一度考えて何か書いてみたいなと思います。

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