病気のおかげで
今土曜の夜。
今日もどこかへ出かけたかったのだけど不調で叶わなわず、楽器も持たなかった。
昼時にちょっとだけ散歩めいた時間があり、その写真をここに並べ誰も読まなくてもいいから一日寝ながらなんか書いていようと思ったら重かった気持ちが少し軽くなったりして。
けど結局あっという間に夜になってしまい今。

朝から調子悪くこたつでボーっとしていると洗濯物を干す嫁さんがススキならそこにもあるよねとかいう。
先日ススキで有名な箱根の仙石原が人であふれてたことを話したから。
窓からこのススキを眺めるとその向こうは山。ずーっと進んでいくと間に人家の類は一軒もなく最初にぶつかるのは箱根神社の本殿だと私は勝手に思ってる。さらに最近思う事があるのだけど長くなるので
遠出はできないけどすぐ近所の居酒屋でやってるランチを食べに行くことにした

お店はお母さんが一人でやっていて多分料理が大好きないいひと。
腹があれだからうどんとたまごかけご飯を・・なのだけど
隣のお客さんへうどんとたまご掛けご飯を持って行ったので同じのを頼んだんだなと思ったら隣なんかぼそぼそ言ってる。
しばらくたってカレー丼なんですけどぉ・・
あーごめんなさいと言いながらその卵とごはんを私のところへ持ってきた。
その後しばらくたってから私のところへ蕎麦を持ってくるのでちがうよ?
あれ?と言いながらまた隣へ行き、これもう手付ちゃった?まだ?と今度はうどんを私のところへ・・
その間結構な時間があって隣の客はマスクを外し料理の前で喋ってたし、もういいにしようと思ったのかさあ食べようかという体制に入ってるのも目に入ってた。
私も黙っていようかと思ったけどできず厨房に下がったお母さんにごめん、人前に置かれたものじゃ嫌だから
そう言うとハッとしたような反応のあとすぐ新しく作り直してくれた。
コロナ前なら黙ってられたかなと思ったけどそれも違うだろう?
大丈夫かというくらい安いけどこれにまだデザートか飲み物が付く。
先週もここに来ていてちょっと気に入ってる。言ったらちゃんとしてくれたしまた行こうと思う。
居酒屋なので駐車場がなく車まで少し歩く。
そのまま帰ってもよかったんだけど、ちょっと遠回りしようか

もうやめちゃってかなりになるけど今もいい感じで残るここは洋食屋さんだった。
中学の頃誰かがステーキが美味いと言ってるのを聞き、高校へ電車通学のため駅まで毎日この前を走ってもいたのだけど入っててみたのはかなり後になってから。
結婚前の嫁さんと何度か行った気がするけれどあの頃若すぎて何が美味いとかそれどころじゃなかったかも。
今、行きたいなぁ。当時は高くて頼めなかったステーキを今食べてみたい。

向かいはラーメン屋だったけど入らずじまい。
なぜか最寄り駅周辺の店に入ってはいけないという変な固定観念にずっと縛られてた。
サラッと書いたけど掘り下げてくと生い立ちから来る自分の何かにつながると思う。高校というのもそうだけどこの周囲それ系のキーワードだらけ。けど今日はそういうの考えない穏やかな日にしたいので。
もし今もやっていれば昭和なラーメン屋。行ってここになんか書いたはずだけどな。

すぐそばにあったはずの叔母の家が無くなっていた。
もう全然関係ない誰かの手に渡っているんだろう。
たった一度だけで終わってしまったけれど、身内の誰にも言えない話を唯一聴いてもらえた人。
私が子供の頃その問題を一手に引き受けてくれたのはその叔母だった。
みんなが笑顔で寄ってくる明るく太陽みたいな人で、私を含む血筋の中では別格別系統的な
そのまたすぐそばには同級生の実家もあってそいつもよせばいいのに親父はお前のことをあんまりよく思ってないんだなんて言うもんだから、35年くらいたってもまだそういうつもりでその家を眺める。
ちょうど音楽に興味を持ったころで、その親父さんが聴きもしないのに買ったクラシックのCD何十枚組みたいなのをダビングしてもらって聴いた。
グルードのゴールドベルク変奏曲、マゼールの1812年、ギリレスのチャイコフスキー1番は今でも聴いてる。
高校に入ると彼とは、というかほとんど誰とも疎遠になってしまいそれきり。

この写真撮りながらなんでこんな見栄えのしないようにしか撮れないんだろう?なんて思ってた。
太陽が雲から出て明るくなったらとればいいだけなのに、そんなことも忘れてしまったのか俺は。
どこでもそうだろうけど昔国鉄の駅には桜が植えられてあって、ここも毛虫とその消毒が名物みたいだったりもしたはずのにみんな枯れちゃってた。
だけどそのうちの一本が切り株からまた若芽でてきてるのをみてこう折れてもめげるなみたいな。いま折れかけてるもんだから

生まれて初めて行った炉端焼きの店はこのうちのどれかだけどもうやめちゃってるんだろうな。
残念ながら、酒の話は書かないことになってるので終わり。
あれももう30年か。

嫁さんが、ここもんちと歩いた?
ちょうど自分ももんちと歩いたなと思ってた。
一時はものすごい距離をニコニコワクワク歩いてくれたもんね。
それがずっと続くと思ってた。

遠く、海が見える。
こたつ布団を出すともんちの臭いがしみ込んじゃっていてもう洗うか捨てるかしなくちゃならないレベルなんだけど、もんちがいなくなっちゃう気がして出来なかった。

エレベーター出来たのいつだったか、考えてみると結婚して以降この駅から電車に乗ったことはないかもしれない。
子供の頃に見て焼き付いた駅前の光景はもうなくなってしまった。
あのころ駅舎付近にはいつも法華ぶりをしてほうきと塵取りを持ち掃除をしているおっさんがいて、子供だからそれもそのまま駅の風景として受け入れ記憶した。
戦争孤児というのを知ったころにはもうその人の姿はなかった。

今そこそこの駅でも無人化されてるけどここは窓口生きてた。
駅の写真だったら普通駅舎を撮るでしょ。
さっきから駅名店名地名がわからないように写真を撮って並べてるこれも・・とかも書かないの。

最近時々行くようになった駅前の喫茶店。
元気ならなんか飲んでいこうか?といいたいところだけど
このあたりを歩いてるときふとマーラーの1番の1楽章辺りが頭の中で鳴った。
https://www.youtube.com/watch?v=K0Til1yPuKs
先日朝比奈隆について読んでいたら、マーラーの1番は歌曲の寄せ集めであって交響曲ではないと断じ取り上げることをしなかったとあった。
マーラー理解が進んでからさらに何十年かたった今読むとなんだそりゃと思わないでもないけど、でもあの人マーラーどころかブルックナーだって誰も知らない頃からやって紹介してくれた世代というか時代の人なわけだし。
もう歴史上の貴重な話として読んどきゃいいのかな
前衛的な朝の序奏に続く主部はその歌曲と同一というか一体で、そこだけ見れば穏やかな気持ちで散歩しましたみたいなことを言ってる。
交響曲というにはちょっと間抜けなくらいにのどかなそれはでもその後に来るものとの極端な対比を狙っているわけでもあって、あの人はずっとその手法を追求してたよな

なんだか、気持ちが軽く穏やかになってきた。
日に当たって少し歩くというのが効いてるのかもしれないけどもう一つ、今日はもう楽器を触らないし考えないと思ったからだと気づいた時自分でなんだそりゃと思った。
じゃあもうやめちゃった方がいいかと言えばそれは違う。
なんでそう思うかと言えば何度もやめたことがあるからで。

嫁さんが寄りたいというので肉屋による。
あれもう何にもないじゃないと思ったけど、そうじゃなくて言うと揚げてくれるそうだ。
こういうの楽しいよね。
元気ならトンカツと・・と言いたいところなのに。
昨年病気勃発してからトンカツ食べたことあったかな?ないかもな。
昔毎日食べたこともあったけれど。
野菜コロッケくらいならいいかな。またきたい。

ドラックストアで嫁さんが見つけたモンブラン的なケーキを家で。
なんか切るのに苦労してたけど笑ってられるこんな今でよかった。
久しぶりに穏やかな気持ちになれたのは病気のおかげ。
ここへきてこうなったのにも意味があるのかもしれない。
音楽に関してだけは神様に見捨てられてるのかなと思う事があるけれど、でもなにか、何か伝えて来てるんじゃないかと思ってみたり。
今日もどこかへ出かけたかったのだけど不調で叶わなわず、楽器も持たなかった。
昼時にちょっとだけ散歩めいた時間があり、その写真をここに並べ誰も読まなくてもいいから一日寝ながらなんか書いていようと思ったら重かった気持ちが少し軽くなったりして。
けど結局あっという間に夜になってしまい今。

朝から調子悪くこたつでボーっとしていると洗濯物を干す嫁さんがススキならそこにもあるよねとかいう。
先日ススキで有名な箱根の仙石原が人であふれてたことを話したから。
窓からこのススキを眺めるとその向こうは山。ずーっと進んでいくと間に人家の類は一軒もなく最初にぶつかるのは箱根神社の本殿だと私は勝手に思ってる。さらに最近思う事があるのだけど長くなるので
遠出はできないけどすぐ近所の居酒屋でやってるランチを食べに行くことにした

お店はお母さんが一人でやっていて多分料理が大好きないいひと。
腹があれだからうどんとたまごかけご飯を・・なのだけど
隣のお客さんへうどんとたまご掛けご飯を持って行ったので同じのを頼んだんだなと思ったら隣なんかぼそぼそ言ってる。
しばらくたってカレー丼なんですけどぉ・・
あーごめんなさいと言いながらその卵とごはんを私のところへ持ってきた。
その後しばらくたってから私のところへ蕎麦を持ってくるのでちがうよ?
あれ?と言いながらまた隣へ行き、これもう手付ちゃった?まだ?と今度はうどんを私のところへ・・
その間結構な時間があって隣の客はマスクを外し料理の前で喋ってたし、もういいにしようと思ったのかさあ食べようかという体制に入ってるのも目に入ってた。
私も黙っていようかと思ったけどできず厨房に下がったお母さんにごめん、人前に置かれたものじゃ嫌だから
そう言うとハッとしたような反応のあとすぐ新しく作り直してくれた。
コロナ前なら黙ってられたかなと思ったけどそれも違うだろう?
大丈夫かというくらい安いけどこれにまだデザートか飲み物が付く。
先週もここに来ていてちょっと気に入ってる。言ったらちゃんとしてくれたしまた行こうと思う。
居酒屋なので駐車場がなく車まで少し歩く。
そのまま帰ってもよかったんだけど、ちょっと遠回りしようか

もうやめちゃってかなりになるけど今もいい感じで残るここは洋食屋さんだった。
中学の頃誰かがステーキが美味いと言ってるのを聞き、高校へ電車通学のため駅まで毎日この前を走ってもいたのだけど入っててみたのはかなり後になってから。
結婚前の嫁さんと何度か行った気がするけれどあの頃若すぎて何が美味いとかそれどころじゃなかったかも。
今、行きたいなぁ。当時は高くて頼めなかったステーキを今食べてみたい。

向かいはラーメン屋だったけど入らずじまい。
なぜか最寄り駅周辺の店に入ってはいけないという変な固定観念にずっと縛られてた。
サラッと書いたけど掘り下げてくと生い立ちから来る自分の何かにつながると思う。高校というのもそうだけどこの周囲それ系のキーワードだらけ。けど今日はそういうの考えない穏やかな日にしたいので。
もし今もやっていれば昭和なラーメン屋。行ってここになんか書いたはずだけどな。

すぐそばにあったはずの叔母の家が無くなっていた。
もう全然関係ない誰かの手に渡っているんだろう。
たった一度だけで終わってしまったけれど、身内の誰にも言えない話を唯一聴いてもらえた人。
私が子供の頃その問題を一手に引き受けてくれたのはその叔母だった。
みんなが笑顔で寄ってくる明るく太陽みたいな人で、私を含む血筋の中では別格別系統的な
そのまたすぐそばには同級生の実家もあってそいつもよせばいいのに親父はお前のことをあんまりよく思ってないんだなんて言うもんだから、35年くらいたってもまだそういうつもりでその家を眺める。
ちょうど音楽に興味を持ったころで、その親父さんが聴きもしないのに買ったクラシックのCD何十枚組みたいなのをダビングしてもらって聴いた。
グルードのゴールドベルク変奏曲、マゼールの1812年、ギリレスのチャイコフスキー1番は今でも聴いてる。
高校に入ると彼とは、というかほとんど誰とも疎遠になってしまいそれきり。

この写真撮りながらなんでこんな見栄えのしないようにしか撮れないんだろう?なんて思ってた。
太陽が雲から出て明るくなったらとればいいだけなのに、そんなことも忘れてしまったのか俺は。
どこでもそうだろうけど昔国鉄の駅には桜が植えられてあって、ここも毛虫とその消毒が名物みたいだったりもしたはずのにみんな枯れちゃってた。
だけどそのうちの一本が切り株からまた若芽でてきてるのをみてこう折れてもめげるなみたいな。いま折れかけてるもんだから

生まれて初めて行った炉端焼きの店はこのうちのどれかだけどもうやめちゃってるんだろうな。
残念ながら、酒の話は書かないことになってるので終わり。
あれももう30年か。

嫁さんが、ここもんちと歩いた?
ちょうど自分ももんちと歩いたなと思ってた。
一時はものすごい距離をニコニコワクワク歩いてくれたもんね。
それがずっと続くと思ってた。

遠く、海が見える。
こたつ布団を出すともんちの臭いがしみ込んじゃっていてもう洗うか捨てるかしなくちゃならないレベルなんだけど、もんちがいなくなっちゃう気がして出来なかった。

エレベーター出来たのいつだったか、考えてみると結婚して以降この駅から電車に乗ったことはないかもしれない。
子供の頃に見て焼き付いた駅前の光景はもうなくなってしまった。
あのころ駅舎付近にはいつも法華ぶりをしてほうきと塵取りを持ち掃除をしているおっさんがいて、子供だからそれもそのまま駅の風景として受け入れ記憶した。
戦争孤児というのを知ったころにはもうその人の姿はなかった。

今そこそこの駅でも無人化されてるけどここは窓口生きてた。
駅の写真だったら普通駅舎を撮るでしょ。
さっきから駅名店名地名がわからないように写真を撮って並べてるこれも・・とかも書かないの。

最近時々行くようになった駅前の喫茶店。
元気ならなんか飲んでいこうか?といいたいところだけど
このあたりを歩いてるときふとマーラーの1番の1楽章辺りが頭の中で鳴った。
https://www.youtube.com/watch?v=K0Til1yPuKs
先日朝比奈隆について読んでいたら、マーラーの1番は歌曲の寄せ集めであって交響曲ではないと断じ取り上げることをしなかったとあった。
マーラー理解が進んでからさらに何十年かたった今読むとなんだそりゃと思わないでもないけど、でもあの人マーラーどころかブルックナーだって誰も知らない頃からやって紹介してくれた世代というか時代の人なわけだし。
もう歴史上の貴重な話として読んどきゃいいのかな
前衛的な朝の序奏に続く主部はその歌曲と同一というか一体で、そこだけ見れば穏やかな気持ちで散歩しましたみたいなことを言ってる。
交響曲というにはちょっと間抜けなくらいにのどかなそれはでもその後に来るものとの極端な対比を狙っているわけでもあって、あの人はずっとその手法を追求してたよな

なんだか、気持ちが軽く穏やかになってきた。
日に当たって少し歩くというのが効いてるのかもしれないけどもう一つ、今日はもう楽器を触らないし考えないと思ったからだと気づいた時自分でなんだそりゃと思った。
じゃあもうやめちゃった方がいいかと言えばそれは違う。
なんでそう思うかと言えば何度もやめたことがあるからで。

嫁さんが寄りたいというので肉屋による。
あれもう何にもないじゃないと思ったけど、そうじゃなくて言うと揚げてくれるそうだ。
こういうの楽しいよね。
元気ならトンカツと・・と言いたいところなのに。
昨年病気勃発してからトンカツ食べたことあったかな?ないかもな。
昔毎日食べたこともあったけれど。
野菜コロッケくらいならいいかな。またきたい。

ドラックストアで嫁さんが見つけたモンブラン的なケーキを家で。
なんか切るのに苦労してたけど笑ってられるこんな今でよかった。
久しぶりに穏やかな気持ちになれたのは病気のおかげ。
ここへきてこうなったのにも意味があるのかもしれない。
音楽に関してだけは神様に見捨てられてるのかなと思う事があるけれど、でもなにか、何か伝えて来てるんじゃないかと思ってみたり。
酸欠って自分で気づいた時はもう危ないよね

古民家改装なお店、元縁側みたいな窓が全開で春だねーという感じ。
若い女性二人組の話声が聞こえてきてた。
吹奏楽にかかわっているらしく、もしかすると中学校の先生かもしれない。
いろんなとこにいろんな人生があるなと思うけれど私にとっては真っ黒スイッチが入る言葉なのであんまり聞こえてこなくていいんだけど
レッスンで息が足りずフレーズの途中でブレスをしたりするとこの世で最もみっともないことをしたというような事を言われるし自分でもそう思う。私のは調子がいいとかわるい以前の話だけど。
で今またそんな。
プロのオーケストラ奏者が息が足りずなんてのはないと思うけれど、もっと高尚な次元でも変なことをすればその日に辞表な世界なのは人から聴いたり読んだりした。仮に客席の誰も気づかなくてもみたいな。あれみんな人生というか命を懸けてやってる連帯責任集団ですしね。
少し前に嫁さんが見てた歌番組で有名ベテラン歌手が歌ってた。
私が子供の頃にはもう歌手というよりテレビのタレントみたいだったけど本人はすごいプライドを持ってると自分で言ってるのを見たような。
あれなんか声が出てないな調子悪いのかな
あっ!?
フレーズの途中のありえない場所でブレスをした。
あれ、本人はつらいんじゃないかなぁ・・・
苦しくてつらいとかじゃなくて、プロだというプライドに対して。テレビで流れちゃってるんだし。
名前と顔で勝負している人の、辞められないクビにもなれないつらさというのがあるんじゃないかなぁ‥と
そんなこと偉そうに言える私じゃないけど今。

前回はよく鳴るリードを持って行ってごまかしたけれど、
今回はみんなよく鳴るリードにしちゃってそれでも調子が悪いんだからもう逃げ場もないよ?
ないよ?じゃないよ。
言ってても仕方がない、鏡を見て口を確認して
息の棒とか言っててももうイメージつかめなくなってきたから丁寧に細いけれど密度のある息を注ぎ込むようなイメージで・・
ほんの少しだけ、落ち着いてきたかも。
まだまだ駄目だけど。
https://www.youtube.com/watch?v=K0Til1yPuKs
この曲中学の終わりくらいに知って高校に入るころにやたらに聴いてた記憶があって。
春が来たよと始まり2楽章で到達する夏は人生順風満帆。なのにその後一転死んだような世界が来るという
壮絶な戦いを経て天から降ってくるようなニ長調の光に包まれちょっと異常なくらいの勝鬨を上げながら終わってゆく。
あの頃それをそのまま聞いちゃってたけど、でもボロボロになったまま死をもって救済ってものすごい皮肉というかかなりむなしく悲しくブラックなことを言ってると思う。
あのころ、自分にも春が来たような気がしてた。
けどこの曲とおんなじ、グロテスクな世界が俺にも来ちゃって・・
これ誰に通じるかわかんないけど。

腹の患部に届けとか思いながら
このホットジンジャーがまた飲みたくてわざわざ遠くのお店へ
レモンと蜂蜜のバランスみたいなのが絶妙で美味しかった。
発芽玄米と敵意

畑のブロッコリーは跡形もなく消えていた。
富士山には傘雲。言い伝え通りこのあと天気はどんどん下っていった。
地図を見てるとまた店なんかあるわけないようなところに店があるのでいってみる。
脇道みたいなのがあるはずなのに見つけられずに何度か通り過ぎ、工場の敷地にしか見えない駐車場に小さな看板を見つけた。
その奥。

いいねこの感じ。
単管で組んだような建物とか・・
子供の頃に土建屋の土場を見つけると訳もなく入り込んだのを思いだし・・
奥の・・あれかな?

あ-あった。
いいねこのなんていうか現場事務所みたいな・・
あとでレビューみたらログハウス風の外観と書いている人がいた。きっといい人。

あーでも綺麗でおしゃれじゃない。
時間も時間だけど・・入るとまた笑顔で迎い入れてもらえた。
ここは陶芸とか家具とか作家に場所を貸すみたいな何かの一部なのかな?
隣ではのこぎりやハンマーの音。
そういうのは気にならないというか少しも嫌じゃない。
メインをいくつかの中から選べるランチの

白身魚のネギソースがけ。
こういう小鉢がいっぱい系は食ってて幸せな気分になりますね。
発芽玄米のご飯はお替りできますよ・・
えっ発芽?
発芽玄米なんて普段聞かないから何かなと思って調べたら
なんかのテストで怒り・敵意・鬱を示す数値をを低減させることが確認され・・
なんだそれ毎日食おうかなそれじゃ。
心の中に未処理なまま放置された不満や不安や後悔みたいなものが時々等価の敵意に変換されて出てくることがある。
リアル誰かにぶつけないようにすると頭がどうでもよくなったはずの過去の人や出来事を持ち出してさあこの人に対して怒りをぶちまけましょうと勝手に段取りをする。
時間が無駄なうえに癌みたいに心の正常な部分まで蝕んじゃうからそういうのだめだと自分に言いつつ気が付けば・・
発芽玄米を毎日食ったら治るんだろうか?
https://www.youtube.com/watch?v=K0Til1yPuKs
マーラーの交響曲第1番の序奏
朝霧が立ち込め遠くから軍隊ラッパが微かに聴こえてくる。霧は段々晴れてきて・・
14歳くらいだったか初めて聴いたときものすごい衝撃を受け何度も何度も聞いたこれ。

クラリネットによる暗示的なファンファーレの余韻を断ち切るオーボエ。
昔指揮者の岩城の本でを読んでいたらウイーンフィルの団員から歴史的にも貴重な話を色々聞けたという事が書いてあり、一つの例としてマーラーの弟子でもあったブルーノ・ワルターは練習中このオーボエについて
春が来て勢いよく花の芽が出たところだ!
といったというのがあった。
読んだ時には若干の違和感を感じたけれど、静というか無みたいなところから生きる喜びの歌が歌われる場が生成されていくプロセスでもあるわけだからここ・・・
あれから何十年もたった。
なんにも成長しない自分も、色々変わった。

嫁さんのは小籠包
お店のお姉さんの話し方に特徴があるのを感じたのでお替りを持ってきてくれた時に話しかけてみる。
すっごい笑顔でわたし台湾出身です!
もう日本に来て結構経つようだ。
人の話だからこんなところに書いていいかわからないけれど、いろんな話ができてちょっと楽しかった。
最近また人間拒否症へ薪をくべるみたいになっちゃってるからちょっとでも笑顔の会話ができるとごちそうをもらったような気になる。
ご飯、素朴でおいしかったよ。
驚きの何とかというんじゃないけれどホッとしていいなぁ・・

始めは女性二人の先客がいた。
一人が岩にしみ込んだ怨念みたいな声でどこかへの批判や恨み言をを繰り返しもう一人が相槌を・・
熊の威嚇じゃないけど動物って互いに言葉がなくても声色だけで意思が通じ合うようにできているんでしょう?
頭の防衛機能みたいなのが過剰に働くとそういうのをいちいち拾っちゃってあそこに熊がいますよ逃げるべきじゃないんですか?みたいな信号が出ちゃうんでしょうね。
こういうのも発芽玄米で治るんだろうか?
機嫌よく出て行った恨み節な人はどうも常連さんみたいだ。
発芽玄米まだ足りないのかな?
いやあれでいいんだよねきっと。
こういうところで毒を吐いて置いていき、またどっかで頑張るとかなんでしょう。
なんにも一つも発芽しない俺もまだ死なずに生きてるよ。
きになる
他人から見ればくだらないことが面白いということがあります。
これじゃなくてもいいんだけどたまたま写真があったから・・

江ノ電沿いを歩いていると・・・車庫のさらにその奥に新しく小ぶりな車庫があり古い電車が大事そうに締まってあります。
もと鉄道マニアなのであれはなんとなく見たことがある。
今は現役ではないけれどとても古い車両で、江ノ電の宝みたいなものなんだろうなと思う。
興味があるのは車両よりも車庫。シャッターが閉まりそうだけど、奥へ通じている架線ひっかっかる?

近づいてみるとこんなものがあって、あの中央のナイフスイッチみたいなのが可動してシャッターをよけるようになってるのか!・・
っと写真を撮る・・
シャッターとの絶縁距離はあれで足りるのかな?
江ノ電てDC600Vだっけ?・・
こんなのほとんどの人は興味がないだろうし、馬鹿じゃない?とかでしょう。
でもだからと言ってあの仕組みがくだらない訳じゃないと思うんです。
マーラーの交響曲第1番のフィナーレにあるこのものすごいファンファーレは勝利を象徴するかのような重要な部分ですが、
このちょっと度を越して派手な演出はこれが実は虚構であることをほのめかしているんじゃないか・・とかなんとか盛り上がるわけです・・

これは実際嵐の中に現れる第1主題が好転したものなわけですが・・
シューマンの交響曲第3番「ライン」のフィナーレの後半を飾っているこのファンファーレ

ここから発想を得てるんじゃないかという話があります。
楽譜で見ると結構似てて笑うでしょう・・・
一方たまたま似てるだけだろう・・というのもある。
それが実際そうなのかはわからないしそれがすべてな訳でもないんだろうけど、ちょっと面白い。
マーラーはシューマンの交響曲のオーケストレーションに手をいれた楽譜を出版しようとしているし、若いころからシューマンの交響曲は知っていたし好きだったんだろうと思います。
少なくとも作曲中にここに似ていることを意識はしたと思う。
パクるとかそんな次元ではなくて・・
後は私の小さな興味なんですが、
恋人への未練みたいなものが燃え上がって爆発した後、かなわない現実に音楽は闇に沈みます。
ヴィオラの掛け声でまた歩き始めるんですがそこでホルンの合いの手

これだけなんですけど・・
ボーっとしてれば聞き流すようなものですが、
これがシューマンのライン交響曲フィナーレの

これが元ネタだったりするのかな・・ということ。
よく見ると音の並びが少し違うし、似てるフレーズなんて世の中に腐るほどあるんだからこういう似てるのを拾って騒ぐ敵ネタはちょっと間抜けかもしれません。
でももしかして作者はだれか気づくかな?くらい思って書いてたりして・・
なんて考えてみることが好き。
これが何か意味を持った引用だなんて思いませんけれど。
ただそれだけ・・・
でもこういうの気になる。
楽しい。
これじゃなくてもいいんだけどたまたま写真があったから・・

江ノ電沿いを歩いていると・・・車庫のさらにその奥に新しく小ぶりな車庫があり古い電車が大事そうに締まってあります。
もと鉄道マニアなのであれはなんとなく見たことがある。
今は現役ではないけれどとても古い車両で、江ノ電の宝みたいなものなんだろうなと思う。
興味があるのは車両よりも車庫。シャッターが閉まりそうだけど、奥へ通じている架線ひっかっかる?

近づいてみるとこんなものがあって、あの中央のナイフスイッチみたいなのが可動してシャッターをよけるようになってるのか!・・
っと写真を撮る・・
シャッターとの絶縁距離はあれで足りるのかな?
江ノ電てDC600Vだっけ?・・
こんなのほとんどの人は興味がないだろうし、馬鹿じゃない?とかでしょう。
でもだからと言ってあの仕組みがくだらない訳じゃないと思うんです。
マーラーの交響曲第1番のフィナーレにあるこのものすごいファンファーレは勝利を象徴するかのような重要な部分ですが、
このちょっと度を越して派手な演出はこれが実は虚構であることをほのめかしているんじゃないか・・とかなんとか盛り上がるわけです・・

これは実際嵐の中に現れる第1主題が好転したものなわけですが・・
シューマンの交響曲第3番「ライン」のフィナーレの後半を飾っているこのファンファーレ

ここから発想を得てるんじゃないかという話があります。
楽譜で見ると結構似てて笑うでしょう・・・
一方たまたま似てるだけだろう・・というのもある。
それが実際そうなのかはわからないしそれがすべてな訳でもないんだろうけど、ちょっと面白い。
マーラーはシューマンの交響曲のオーケストレーションに手をいれた楽譜を出版しようとしているし、若いころからシューマンの交響曲は知っていたし好きだったんだろうと思います。
少なくとも作曲中にここに似ていることを意識はしたと思う。
パクるとかそんな次元ではなくて・・
後は私の小さな興味なんですが、
恋人への未練みたいなものが燃え上がって爆発した後、かなわない現実に音楽は闇に沈みます。
ヴィオラの掛け声でまた歩き始めるんですがそこでホルンの合いの手

これだけなんですけど・・
ボーっとしてれば聞き流すようなものですが、
これがシューマンのライン交響曲フィナーレの

これが元ネタだったりするのかな・・ということ。
よく見ると音の並びが少し違うし、似てるフレーズなんて世の中に腐るほどあるんだからこういう似てるのを拾って騒ぐ敵ネタはちょっと間抜けかもしれません。
でももしかして作者はだれか気づくかな?くらい思って書いてたりして・・
なんて考えてみることが好き。
これが何か意味を持った引用だなんて思いませんけれど。
ただそれだけ・・・
でもこういうの気になる。
楽しい。
樹
うちから少し歩いたところかにお堂があって、一本の大きな銀杏の樹があるんです。
廃仏毀釈の前は寺だったんだっけ?わすれちゃった・・
お堂は少なくとも江戸時代からあるみたいだ。
犬と散歩に出かけたら

葉が黄色くなりかけていました。
大きすぎて写真でとらえきれません。
この近所に住んでいる人から聞いた話。
子供の頃、弟が高熱を出したが何日か経っても一向に熱が下がる気配がない・・
どうしたことかとなったとき弟が
あの銀杏の樹で昼寝をしようと幹に板をに五寸釘で打ち付けた・・という。
皆で見に行くとその通りになっていたのですぐに釘を抜いて樹に謝った。
すると熱は下がり・・
昔話とかじゃなくてまだ生きているおっさんの話です。
人に熱を出させる霊力みたいなものがあるかはさておき、木だって生きているんだから魂を持っていると思う。
人と同じく魂も年月とともに成長すると思うので何百年も生きた樹は深い心を持っているのではないかと思うんです。
人の言葉でべらべらしゃべってたりはしないだろうけど、歌ぐらい歌ってるかもしれない。
銀杏じゃないですが、
マーラーの「さすらう若者の歌」という連作歌曲集の終曲に菩提樹が出てきます。
失恋に苦しむ若者の歌ですが最後の部分
自分に残されたのかなわぬ愛と苦しみだけだと、あてのない旅に出ます。
街道沿いの菩提樹の下で寝ていると
すべての苦しみは幻だ、もう忘れた、もうどうでもいい・・
私の上には花弁が舞い落ち・・
みたいな安らぎを得る。
ハープと3本のヴァイオリンが、心地よい木陰を見せてくれているでしょう・・
でも、

音楽がこの安らぎでは永遠ではないこと、この先にある黒いものを暗示して曲は終わってしまいます。
希望や慰めを見せておいて、絶望的な現実を突きつける・・みたいなの好きなんですよねこの作者。
ほぼ同時に作曲されていたらしい交響曲第1番の第3楽章にも全く同じ音楽がでてきます。
この手前は死の世界へ導いているようなグロテスクな葬送行進曲。
音楽は全く同じだけど調が違うんですね。
ここで起こっていることはどちらの曲も同じものだと思う。

シンフォニーの安らぎの時間も歌曲と同じように中断しますが、こちらには続きがある。
若者のその後を我々は知ることになる。
というこのあたりの話は、マーラーに入門すると解説かなんかで読んで両曲を聴きへーと思う話なんですね。
この相互引用は有名で作者自身も狙ってやっているのは間違いないんですが、考えてみればどちらか片方しか知らなくてもその内容は十分伝わってきますよね。
とはいえ、かなわない愛と苦しみをもって・・みたいなのを思うと交響曲のフィナーレがとても分かりやすく聴くけたりもする。
作者もシンフォニーを聴く聴衆が歌の詩ににとらわれすぎてしまう事に気付き、まずいと思ったらしい形跡があるようなことをどこかで読んだ。
まあいいかそんなの。
お釈迦様が悟りを開いたのも菩提樹でしょう・・菩提樹って何か特別な力を持っているんでしょうか・・
私も菩提樹の下へ行ったら何か悟ることができるのかな?
私は、お堂の銀杏の樹でいいです。
よく言うパワースポット的なパワーをくれるなんていうのはないですが、
行くとなんというかホッとする。
見ていてくれているんじゃないかなと思うんです。
静かに
「おう、きたか・・・」
みたいな・・
廃仏毀釈の前は寺だったんだっけ?わすれちゃった・・
お堂は少なくとも江戸時代からあるみたいだ。
犬と散歩に出かけたら

葉が黄色くなりかけていました。
大きすぎて写真でとらえきれません。
この近所に住んでいる人から聞いた話。
子供の頃、弟が高熱を出したが何日か経っても一向に熱が下がる気配がない・・
どうしたことかとなったとき弟が
あの銀杏の樹で昼寝をしようと幹に板をに五寸釘で打ち付けた・・という。
皆で見に行くとその通りになっていたのですぐに釘を抜いて樹に謝った。
すると熱は下がり・・
昔話とかじゃなくてまだ生きているおっさんの話です。
人に熱を出させる霊力みたいなものがあるかはさておき、木だって生きているんだから魂を持っていると思う。
人と同じく魂も年月とともに成長すると思うので何百年も生きた樹は深い心を持っているのではないかと思うんです。
人の言葉でべらべらしゃべってたりはしないだろうけど、歌ぐらい歌ってるかもしれない。
銀杏じゃないですが、
マーラーの「さすらう若者の歌」という連作歌曲集の終曲に菩提樹が出てきます。
失恋に苦しむ若者の歌ですが最後の部分
自分に残されたのかなわぬ愛と苦しみだけだと、あてのない旅に出ます。
街道沿いの菩提樹の下で寝ていると
すべての苦しみは幻だ、もう忘れた、もうどうでもいい・・
私の上には花弁が舞い落ち・・
みたいな安らぎを得る。
ハープと3本のヴァイオリンが、心地よい木陰を見せてくれているでしょう・・
でも、

音楽がこの安らぎでは永遠ではないこと、この先にある黒いものを暗示して曲は終わってしまいます。
希望や慰めを見せておいて、絶望的な現実を突きつける・・みたいなの好きなんですよねこの作者。
ほぼ同時に作曲されていたらしい交響曲第1番の第3楽章にも全く同じ音楽がでてきます。
この手前は死の世界へ導いているようなグロテスクな葬送行進曲。
音楽は全く同じだけど調が違うんですね。
ここで起こっていることはどちらの曲も同じものだと思う。

シンフォニーの安らぎの時間も歌曲と同じように中断しますが、こちらには続きがある。
若者のその後を我々は知ることになる。
というこのあたりの話は、マーラーに入門すると解説かなんかで読んで両曲を聴きへーと思う話なんですね。
この相互引用は有名で作者自身も狙ってやっているのは間違いないんですが、考えてみればどちらか片方しか知らなくてもその内容は十分伝わってきますよね。
とはいえ、かなわない愛と苦しみをもって・・みたいなのを思うと交響曲のフィナーレがとても分かりやすく聴くけたりもする。
作者もシンフォニーを聴く聴衆が歌の詩ににとらわれすぎてしまう事に気付き、まずいと思ったらしい形跡があるようなことをどこかで読んだ。
まあいいかそんなの。
お釈迦様が悟りを開いたのも菩提樹でしょう・・菩提樹って何か特別な力を持っているんでしょうか・・
私も菩提樹の下へ行ったら何か悟ることができるのかな?
私は、お堂の銀杏の樹でいいです。
よく言うパワースポット的なパワーをくれるなんていうのはないですが、
行くとなんというかホッとする。
見ていてくれているんじゃないかなと思うんです。
静かに
「おう、きたか・・・」
みたいな・・
傷

出かけようとすると車に小さく鳥の糞がついていたので水を含ませたセームでさっと拭きとり・・・
あっ
拭いた奇跡に合わせて小傷が描かれるのが見えた。
何を食っているのか知らないけど糞の中には硬い砂粒みたいなものが混じっているらしく・・
あーあ・・油断した。
気にしなければ見えないような傷なんだけど、気にしている私には見える。
経験的に傷を消そうといろいろやるとかえって変な小傷をふやすだけだ。
あとはしばらく見ないようにして・・時間が忘れさせるのを待つだけ・・
いつかどうでもよくなることは知ってる。
なかなかそうはならないけどね。
生きてるといろんな傷がついてきます。
擦り傷、飛び石どころかでっかいものがすごい勢いでぶつかってきてえぐり取られちゃたりもするかもしれない。
皆そうやって形ができていくんでしょうかね・・
その結果、味のある造形になる人もいるだろうし、いつまでもヒリヒリ痛みが消えなくて泣いている人もいるだろうし、根本からえぐられて倒れちゃった人もいるでしょう。
池の表面をひっかくと波が立ってざわめきますが、ほっとけばまた戻って鏡みたいな表面に落ち着きます。
あんなだといいのにね。
少なくとも車の塗装でそういうのを開発してください。
こちらは傷どころか砲弾が飛んできちゃっている人のお話です。
マーラーの交響曲第1番という曲、前半は明るく順風満帆な世界ですが第3楽章でもう心が死んじゃいますみたいな鬱世界に入り第4楽章は心の嵐です。
どこにも何にも書いてませんが、別な歌曲の存在からその原因は失恋だと聴き手は知っている。
歌曲も何も知らなくても4楽章の第2主題を聞けば気付くかもしれない。
原因がなんであるかはどうでもいいことなのかもしれない。
外部から自分の心を狙って衝撃がどんどん撃ち込まれてきます。

大太鼓=バスドラって、オーケストラでもっとも低い音が出るのではないかと思われる楽器の一つです。
開演前に小さく試し打ちをしているとホール中に耳に音として聞こえる周波数より低い衝撃波みたいなものが飛んでくるのを感じます。
はじめて実演でこの曲を聴いたのも結構前のことですがその時、今まで大太鼓の一撃だと思っていたところで大砲だ!砲弾が撃ち込まれてるんだ・・と思いました。
心の嵐どころじゃないわ心への侵略戦争だ・・
といってチャイコフスキーの序曲1812年みたいに大砲だとかいってこれにばっかり注目するのはちょっと間抜けかもしれません。
その後バスドラに注目してずっと見ながら聴いたことがあるんですが、楽章前半が大太鼓協奏曲かと思うくらいバスドラが大事というかなんかこうやってた・・

要の部分でティンパニやシンバルと組み合わさってドカドカやってるんだけど、毎回少しずつパターンを変えてるんですね。
ただ聴いてると何とも思わないけど、注目すると結構面白いですよこれ。

実演だと愛を熱く歌う第2主題に入るためにいったん静まる辺りでさっきまで鳴り響いていた大砲が耳に残ったりします。
なんだったんだ・・・みたいな。
あれは得難いものだと思う。
何日かたったけど車の傷は消えてなかった・・当たり前か。
傷、気にしなくなるとどんどん扱いがいい加減になっていったりもしますよね。まあいいやみたいな・・
傷ついても勝手に修復してなかったことになっちゃうんだと、心も痛まない代わりに何の成長もないかもしれない。
本当に苦しいときにこういう綺麗ごとを並べられると嫌ですけどね。
気の持ちようで

車で家を出るとここを通っていくわけですが、右側のコンクリが白くなっているのは私がホイールをぶつけたところです。
2トン車でも通れるし、今まで15年以上ほぼ毎日通っているわけで狭くもなんともないのに、ぶつけてからここが結構怖い・・
またぶつけることにおびえているのである。
逆に言うと、怖いと感じるようなことは皆気の持ちようで実は何の問題もないという事かもしれない。
先日整体に行って、年中首が凝ってると言ったら首のあたりを矯正してくれた。気のせいかあれから首が凝らない。
正確にはいったん凝りかけるんだけど、いつの間に勝手に治るきがする。
正直に言うとまだ整体というものを疑っていてだまされてるんじゃないかとも思うんだけど、だまされてコリがなくなるんならそれでいいじゃないかとも思う。
気にしないと一度は吐き捨てたはずのものがもやもやするので状況・原因等を分析して違う側面から見ると、ひどい失敗に見えるそのことが実は発展的に良い方向へ進んだ一歩なのではないかと思えたりもする。
そう思えればその瞬間は心が軽く明るくなった気がする。
またすぐに戻っちゃうんだけど。
人間の心は事実と関係なく気の持ちようなんじゃないか。
今、ほっとくとばねで押したようになんでも悪い方向へシフトするのでばねの向きを変えて何でもいいほうへ考えられたらいいんだろうな。
ちょっと難しいのでとりあえずニュートラルになれるように・・
マーラーの交響曲第1番という曲があって、その第4楽章は若者の心の嵐です。
完成が28歳と作者自身も若いので死んじゃうような苦悩の正体は失恋だったりするわけですが、途中でその苦悩を踏み倒し、圧倒的な勝利の上に立つ!みたいな場面があるんです。
音楽的にはハ長調からニ長調へというすごい転調をやっているわけなんですが、
この曲を初めて聴いたとき、ここでたまげた。
宝箱みたいなもののふたが勝手に開いて中から光があふれだしているのをみた。。

転調の瞬間にルフトパウゼ(ふっと間をあける)の指示があってこれもみそなんですが、ワルターは無視してますね・・

マーラー自身、誰かの手紙へ天から光が(だっけ?)降ってくるような効果を出したくて、この転調を思いついたみたいなことを言っています。
ここでうまいなともうのは、この転調のすごさを聴き手に印象付けるためこのすぐ手前で

暗示というか妄想というか
転調しないでハ長調のまま行くファンファーレを一回聞かせてるんですよね。
普通だったらこうなるでしょ・・と。
すぐに吹き飛ばされちゃうんだけど。
その後にあれを聴くとさらにものすごい事になっちゃってて余計びっくり!みたいな・
このすごいニ長調への上昇の後ずっと勝利の歌が続くかというと‥森に入って冷静になり、またハ長調の世界へ降りちゃうんですよね。
この勝利は気のせいというか強引な勘違いだったのか・・・
勘違いでも、そうだと思えばあんなところまで登れるよという事か・・
この後曲の終わりにかけてこの勝利のファンファーレがまたでてきます。
今度は最初からニ長調で、、有名なホルン奏者は立って吹きなさいという指示を含む強い音楽で強引に勝利を確定しようとして終わります。
でも、この作曲家の曲だから・・このニ長調の勝利の叫び、実はやっと苦悩に勝利したと思ったらあの世だった=死んでた
みたいなオチなんじゃないかとも思うんですよね。
ものすごくハッピーエンドな曲にも見えますが、実はものすごくブラックな悲しい曲かもしれません。
どちらで聴いてもいいんですよ。
裏まで読み取ったほうが偉いとかそういうことが言いたいんじゃなくて、気の持ちようで何でも違って見えるんだなと・・
整体師も最初の問診でちょっと見ただけで全部お見通しなんだよ的な・・
「いつも足組むとき左を上にするでしょ?」
「右だけどなぁ‥」
「そうね右だよね・・」
「花粉症ありますね!?」
「ないです」
「ないよね~」
こういうのでいちいち、インチキくせーなとか思うから人生損してるんだろうね。
良かったなー効いたなぁーとかだけ感じてられればいいんだ
何でも治るとか言ってたけど
歪んだ精神も矯正してくれないかな。
治りますよとか言いそうだなあの人。
暗雲の正体

マーラー交響曲第1番の第1楽章、明るく爽やかな音楽と見せかけて暗雲が立ち込めてますよの続き。
序奏が終わると明るい日差しのもと美しい野を歩いた・・みたいな音楽が提示されます。
ここだけ聴いていると本当に明るく幸せな音楽ですね。
同じ音楽が別な歌曲の中にも存在します。ほぼ同時に作曲されているそちらの歌曲も聞くとこの交響曲に描かれている世界、人間、何が起こっているのか・・が読めてくるという・・
おもしろいですがあんまりこだわりすぎてると狭く凝り固まった範囲内で曲を聴くことになってしまい危険だとも思ったりして。
この曲は交響詩として発想され、改訂を重ねながらそれを交響曲というフォーマットでまとめることを考えていったようです。
交響曲という形の中で大きな何かを表現しようという作曲家マーラーの誕生なわけです。
交響曲の第1楽章ということでソナタ形式感を明確に打ち出すべく?提示部にリピートが追加されました。

後付けなので提示部が終わるところの繰り返しを歌いだすチェロの記述が何だかいかにも後付けです。
提示部はいくつかの要素が提示されますが、明確に第1主題、第2主題という感じではなくて連続する一つの歌みたいなイメージですよね・・
私はリピートをしないワルターのCDでこの曲の洗礼を受けたので今でもリピートに違和感を感じるようになってしまいました。
提示部が終わると再び序奏の朝霧が戻ってきます。
弦楽器の霧が一小節ずつ高い音へ登っていくんですが、各パートタイミングをずらしながら徐々に徐々に上っていくんですよね。
ぼかされているんだからぼけっと聴いとけばいいんしょうけどその変化を聞き取ろうとしてしまう癖があるんですよね。
オーディオとか言ってるとそうなっちゃうのかな。

鳥が鳴いていたりするんですが・・
先ほどまで楽しく歌ってたあの旋律がチェロに出てきて・・・何だか不穏な空気感です・・
で13から不穏な空気そのもののテューバ登場です。
その前にヴァイオリンの霧がひそかにオクターブ下がっているんですがふと気が付くと急に暗くなってたみたいなすごい効果が出てると思います。・・・
またここでppで鳴らされるバスドラがラップ音みたいじゃないですか・・お寺の裏で鳴ったりするやつ・・・聞いたことないけど・・
欄外に”テューバ奏者がこの低い音をpppで吹けなければコントラファゴットに吹かせること”みたいなことが書いてあります。
そんなこと言われたら奏者は意地でもやりますよねきっと。それよりこの伸ばし長いんですよね。ブレスどうするんだろう?
2人いる楽器だとひそかに継いでとかできるんでしょうけど、テューバが二人というのはないですもんね。
外人だといけるのか?

4楽章第1主題から来ているあれが早速出てきます。
今度はハープに・・・
この曲を初めて聴いたころ、ハープといえば天使みたいなひとが天上の音楽をというイメージがあったのですがここは低音で怪しく・・
結構インパクトがあった。
ここはまだ意味不明なんですが一歩進んでアウフタクト(前の小節に一つ音があります)から始まっています。

その次、アウフタクトは無くなっちゃうんですが、三連符が8分音符2つになっている・・・これは

4楽章、心の嵐の主題なんです。
やっと正体を現すみたいな・・
朝日と嫌な予感

マーラーの交響曲第1番の冒頭の音楽についての続きです。
以前、序奏の舞台裏トランペットは1・2番と3番で居場所が違うんじゃないかというようなことを書いたんですが・・なんとなく続き

クラリネットのファンファーレが終わるとオーボエが合いの手というか何か言います。
指揮者の岩城の本だったかな、ブルーノ・ワルターがウィーンフィルとの練習でこれを
「春になり冬の眠りから目覚めた花の芽がでたところなのだ」・・飛び出るようにだったかな・・と言っていたいうのを読んだ気がします。へー
ここは朝のシーンだろとかそういうことじゃなくてニュアンスを伝えるためにそういうイメージを語っていたということでしょう?
ハンブルク稿はただ弦楽器が伸ばし続けるだけでしたが・・ヴィオラがやめると第1ヴァイオリンがオクターブで・・

舞台裏のトランペット1・2番はすごく遠く、遅れる3番はただ遠くとも読める・・・

ハンブルク稿はトランペットは2本しかないのでホルンが答えてたんですよね・・
だからTrp3番は別の場所、という事にはならないかもしれないけど・・

その後のカッコウはいまオーボエ→フルートですがもとは普通にフルート→オーボエだったんですね。
バスクラもないから最後はファゴット。
この後出てくるホルンは遠くの山に朝日が当たってるんですかねいいですよね。

その美しい光景の中、ティンパニの衝撃とともにチェロとコントラバスに現れるこの旋律は第4楽章第1主題によるものです。
あの嵐をすでに暗示しているわけですよね・・
でもここではまだちょっと意味不明な感じですね・・この後

もにょもにょ言いながら立ち上っていきます・・・
この曲最初の2楽章は明るくすがすがしいような印象もありますが、いえいえ冒頭から暗雲が顔を出しているんですよ・・
ここ、ただの美しい朝の情景では全然ないんですよね。
これなぜか、

第3交響曲にも出てくるんですよね・・
多分関係ないんでしょうけど・・
第1印象が肝心だっていうもんね

グスタフちゃん。この頃軍隊ラッパが刷り込まれたのかな・・・
マーラーの交響曲第1番巨人の最初のページです。

霧の立ち込める朝・・・弦楽器がフラジオレットでのAの伸ばしで、いきなり鷲掴みです。
第2ヴァイオリンとチェロの第1グループは序奏の序奏みたいな最初の2小節だけやって消えます。
一見、pppで始まるように見えますが、消える第2ヴァイオリンはppです。
木管がカッコウの主題を予告するので、伸ばしは落とす・・ということなんでしょうけど、消えた感がある程度はっきりわかると面白いかなぁ。
その下で同じようにやっている第1チェロはしかしpppです。
第2ヴァイオリンのppにはないsempreという表記が第1チェロのpppにはあります。
印刷譜の初期段階では第1チェロもずっと伸ばしていたのを、後から2小節+1で止めるように変更したのかなと想像してみたり・・
スケルツォのティンパニもそのときに?
ついでに上の予告音型もみんなppなのにフルートだけpだったりして、音色への配慮というかこだわりというか・・・細かいですね。
最下段のコントラバス第3グループはフラジオじゃなくてppですが、欄外に“この最も低いppのaは非常にはっきりと聞き取れること“という指示があります。この音で空間感みたいなものが認識されるような気がします。上の音は霧とか空気ですが、このppのAは大地というか・・・固定されていて微動だにしないもの・・
7小節目にsempre pppとありますが、ここから先はpppにしろということではなくて、ほかのパートと同じように旋律が履いてきても同じ状態を維持しているようにという指示ですよね・・えっ?ちがう?
いつか別途書こうと思いますが、私はベートーベンの交響曲第4番を初めて聴くより先にこの曲を知りました。
なので順序が逆かもしれませんが、ベト4冒頭を初めて聴いてときびっくりしました・・・・これがルーツだったのか?・・とか思って。
降りてきたカッコウ主題は霧のAと半音でぶつかったまま停止します。
そこへ遠くから軍隊ラッパのファンファーレが・・・
カッコウはオーボエとファゴットがやっていますが、ファンファーレを邪魔しないようにか止まったところでオーボエがフルートに入れ替わります。
第1ヴァイオリンの霧もすっと消える・・
また話が飛んじゃいますが、マーラーが大好きだったと思われるショスタコーヴィッチの交響曲第11番冒頭、同じように弦のユニゾンの持続音が動かない空気を表現していますが、ユニゾンでゆっくり動く旋律が空気と半音でぶつかるところがあります・・
意識したかな・・・これ・・・偶然そうなってるだけかな・・
面白いので最初のハンブルク稿を見てみますと・・・


弦楽器は普通の奏法、pppの伸ばしがずっと続くだけです。
その後を知っているからチープに見えますが、普通に考えるとこうなりますよね・・
と書いてから楽譜をよく見ていくと
この先、展開部に入るところで再びこの音楽が出てくるところにはフラジオレットの記号がありました。
フラジオのアイディア、この時点で全く思いついていないわけじゃなかった・・
予告とカッコウの楽器配置も違います。ピッコロとフルートがオクターブユニゾンだったり・・なんというか普通なんですよね。
言いたいことは、巨人冒頭の楽器配置もなんとなくおかれたのではなくて相当工夫して書かれているんだということですよね。
でファンファーレ、4楽章でこの部分が再現されるときと同じく、最初はミュートをつけたホルンだったんですね。ここでファンファーレにクラリネットを採用という暴挙に出たわけですがダイナミクスはpppじゃなくてppなのではっきり聞こえなくちゃいけない、でも影絵のようになって・・素晴らしいよね冒頭から・・
piu mossoとあってファンファーレは早く演奏するのは巨人も同じですがですが、最初は途中からaccelerandoするようになっていたんですね。
縦線みたいなのが書いてあるところが加速開始点かな?
やめているんだから、大げさに加速する演奏があったとしたら間違いいだということ?
書いて無くたって自然にうまいことやるだろということ?
このファンファーレ、この曲のいたるところで鳴るだけでなく、交響曲第9番でも鳴っています・・3番でも鳴ってた・・
単なる軍隊ラッパの描写じゃないですね。
彼の心の奥底に刻まれていたと思う。
なんでこうなっているのか? マーラー交響曲第1番「巨人」第2楽章のティンパニ 版の違い?
マーラーが交響曲第1番「巨人」を完成(どの段階かわからないけど)させたのが28歳でしたっけ・・・

この曲を初めて聴いたのは聴いたのは14歳くらい。TVでだったと思う。
当時ベートーベンとかブラームスを聴いていたけどマーラーなんて初めてだったので冒頭から最後まで衝撃の連続でした。
早速買ったCDがワルター・コロンビア響のもの。ワルターがマーラの弟子だったという知識はなんとなくあった気がする。
あれ?初めて聴いたときのクールな衝撃があんまりないな?と思いつつ暖かいその演奏の虜になって何度も聴きました。
最初に聴いたTVの演奏は3楽章のフォークダンスみたいな音楽・・非クラシック音楽が乱入・・みたいな感じをもっと強調していたと思う。
でも、こんな音楽があるのか・・とかなんとか思いながら繰り返し聴いた覚えがあります。
そのなかで第2楽章のスケルツォ、トリオの後のこの部分、楽譜上にティンパニはないのですが、

ワルターの演奏を聴いているとここでティンパニがガンガン叩いて大騒ぎとなっています。


ハンブルク稿でしたっけ、マーラーが最初に書いたもの。がネットで見られるんですね・・・
その該当箇所にはあの聴きなれたティンパニがありました。
これはしかし交響曲第1番の前身ではありますが、別な曲といった方がいいかもしれません・・音楽的には完成されていますが、マーラーのあのびっくりオーケストレーションはまだまだ全然完成されていません。
冒頭のあの衝撃的な弦のフラジオレットはまだなくて単純な伸ばしがあるだけです・・出たり入ったりもなく伸ばしっぱなし・・
遠くの3本のトランペットの位置関係は・・・2本のトランペットにホルンが答えてた。。
これを見てるとトランペットの3番は1・2違う場所でやった方がいいかなと思ったり・
また細かく見てみようかな・・楽しいな・・
興味深いのは、ここから「巨人」へオーケストレーションは全く違うのに、音楽としては同じ(旋律とか和音とか構成とか・・)なことです。
花の章外したとか、この前の稿は4楽章が普通のソナタ形式だったとかは今別な話として。
このひとオーケストレーションを常に改変していたのは有名ですが、曲の内容まで変わっちゃた・・というのは少ないですかね。。
それはこの人のもつ大きな特性の一つを示している気がします。
このティンパニも昔の事情をいろいろ知っているワルターの追加指示かと思ったりしていましたが、
印刷譜でここにティンパニのある版も存在するんでしょうか?
こればかり聴いてきたのでこれが刷り込まれちゃって・・
ここはティンパニ鳴ってほしいなーと思うように・・
最初に買ったのは88年ころに発売のマックルーア盤と呼ばれるものです。大理石みたいなデザインの・・このジャケット写真は少し違います。
ヒスノイズがそのままでかなり聞こえますが、暖かく生々しい音が聴けます。
あの頃は田舎の小さなレコード屋でもワルター何とかシリーズ第1段発売!
みたいなことをやってたんだよな・・
その後のSBMでしたけ、ノイズはなくなりましたが、音も後退したというか・・
99年くらいのDSD盤というのはエッジが立つように加工されていてチープなシステムではくっきり良い印象で聞こえるのかもしれません。購買層を考慮して狙ったのかな・・
数年前のボックスに入っていたやつも音が不自然だと感じました・・
なんだか昔はよかったを繰り返す典型的な年寄りに自分もなってきちゃったんでしょうか・・・

この曲を初めて聴いたのは聴いたのは14歳くらい。TVでだったと思う。
当時ベートーベンとかブラームスを聴いていたけどマーラーなんて初めてだったので冒頭から最後まで衝撃の連続でした。
早速買ったCDがワルター・コロンビア響のもの。ワルターがマーラの弟子だったという知識はなんとなくあった気がする。
あれ?初めて聴いたときのクールな衝撃があんまりないな?と思いつつ暖かいその演奏の虜になって何度も聴きました。
最初に聴いたTVの演奏は3楽章のフォークダンスみたいな音楽・・非クラシック音楽が乱入・・みたいな感じをもっと強調していたと思う。
でも、こんな音楽があるのか・・とかなんとか思いながら繰り返し聴いた覚えがあります。
そのなかで第2楽章のスケルツォ、トリオの後のこの部分、楽譜上にティンパニはないのですが、

ワルターの演奏を聴いているとここでティンパニがガンガン叩いて大騒ぎとなっています。


ハンブルク稿でしたっけ、マーラーが最初に書いたもの。がネットで見られるんですね・・・
その該当箇所にはあの聴きなれたティンパニがありました。
これはしかし交響曲第1番の前身ではありますが、別な曲といった方がいいかもしれません・・音楽的には完成されていますが、マーラーのあのびっくりオーケストレーションはまだまだ全然完成されていません。
冒頭のあの衝撃的な弦のフラジオレットはまだなくて単純な伸ばしがあるだけです・・出たり入ったりもなく伸ばしっぱなし・・
遠くの3本のトランペットの位置関係は・・・2本のトランペットにホルンが答えてた。。
これを見てるとトランペットの3番は1・2違う場所でやった方がいいかなと思ったり・
また細かく見てみようかな・・楽しいな・・
興味深いのは、ここから「巨人」へオーケストレーションは全く違うのに、音楽としては同じ(旋律とか和音とか構成とか・・)なことです。
花の章外したとか、この前の稿は4楽章が普通のソナタ形式だったとかは今別な話として。
このひとオーケストレーションを常に改変していたのは有名ですが、曲の内容まで変わっちゃた・・というのは少ないですかね。。
それはこの人のもつ大きな特性の一つを示している気がします。
このティンパニも昔の事情をいろいろ知っているワルターの追加指示かと思ったりしていましたが、
印刷譜でここにティンパニのある版も存在するんでしょうか?
こればかり聴いてきたのでこれが刷り込まれちゃって・・
ここはティンパニ鳴ってほしいなーと思うように・・
最初に買ったのは88年ころに発売のマックルーア盤と呼ばれるものです。大理石みたいなデザインの・・このジャケット写真は少し違います。
ヒスノイズがそのままでかなり聞こえますが、暖かく生々しい音が聴けます。
あの頃は田舎の小さなレコード屋でもワルター何とかシリーズ第1段発売!
みたいなことをやってたんだよな・・
その後のSBMでしたけ、ノイズはなくなりましたが、音も後退したというか・・
99年くらいのDSD盤というのはエッジが立つように加工されていてチープなシステムではくっきり良い印象で聞こえるのかもしれません。購買層を考慮して狙ったのかな・・
数年前のボックスに入っていたやつも音が不自然だと感じました・・
なんだか昔はよかったを繰り返す典型的な年寄りに自分もなってきちゃったんでしょうか・・・
マーラー交響曲第1番「巨人」の舞台裏トランペット


マーラー 交響曲第1番 第1楽章序奏部
朝霧に包まれ、遠くのほうから軍隊ラッパが聞こえる・・
初めて聴いたとき、弦楽器のフラジオにもびっくりしましたが、伸ばしがAなのにクラリネットで出てくるファンファーレが変ロ長調主和音でぶつかってくるところに大変衝撃を受け虜になった記憶があります。
自然と人工的な音のぶつかりでしょうか・・
その後聴きなれちゃうとあの衝撃を感じなくなっていっちゃうんですよね・・・
続いて聴こえるトランペット、1・2番には“ものすごく遠くに置かれる、幅広く”?みたいなことが書いてある。
遅れて入る3番には“遠く”とだけ。
遠く感を出すため舞台裏で演奏されますが、注目したいのは1・2番と3番の指示の差で、後からの3番への指示を念押しとみれば3本とも同じ場所で吹けばいい。
でもマーラーの楽譜は深読みしまくらないといけないんじゃないか・・
1・2よりも3番は近いところにいる感かなんかが出てると感動すると思います。
2度ほど聞いた実演はいずれも3本同じところでやっていました。
録音の中にはそれぞれに差をつけているものがあった気がします。
愛聴盤はあんまり・・
終わると裏で吹いてた奏者が袖から入ってきてオケの定位置に座ります。
木の台の上を革靴で歩くからゴトゴト足音がしちゃってたことがあった。
周りが神秘的にやってるだけに台無し感が・・・
交響曲第2番のフィナーレのスコアには一時的に裏へ行ってやる奏者に対して「戻るときに足音で合唱の邪魔をしてはならない」みたいなことが書いてありますよね。
邪魔されたことがあったのかな?
僕だと譜面台倒しちゃったりして・・・・楽器のうまい人はそういうとこもすーっとうまくこなすんでしょうね。
木で弾け マーラー交響曲第1番

マーラー交響曲第1番第3楽章後半
木で弾け、1番にもあった。
欄外にあるのは多分 ”間違いではない!木の部分で弾くこと。”
今は有名曲だけど、始めて見たら間違いでしょと思うんだろうな・・間違いであってほしいのかもな。
二人のソロと、いろんな管楽器がかぶってるから、そっちが聴こえてくるけど
まじめにやると・・声がかれちゃった人みたいな感じになるのかな・

この楽章、この絵のイメージだといわれていますが、確かに木で弾いてみてほしいなぁ。
実演も行ったけどここでやってたなぁという記憶がないなぁ・・
ニ短調で始まったこの楽章、中間部を挟んで戻ると半音上がった変ホ短調なんですよねここまで・・・ポピュラーミュージック的な・・
でこのあといきなり半音下がってニ短調に戻ってる。
さらっとやっちゃってるけどとんでもないことでしょう?
高校に入ったころだったか、バッハから始まってブラームスくらいまで聞いてた頃だったからこの曲を初めて聞いたときぶったまげました。
ここの直前のフォークダンスみたいな音楽には驚きを超えて嫌悪感を感じた。
神聖な音楽が世俗的なものでけがされてるような気がして・・といいかなら食い入るように聴いてた記憶・・
ちょうど初演時の一般聴衆と似た体験ができたのかなと思ったりしています。
今は慣れちゃってなんとも感じられなくなてしまいました。
マーラー 交響曲第1番のヴァイオリン詳細
同じようなネタ続きで飽きちゃうかもしれませんがもう少し書かせてください。
これは有名かもしれませんね。「巨人」の第1楽章、4楽章を予言する部分、

みんなでクレッシェンドしていきますが、第2ヴァイオリンだけクレッシェンドするなの文字。
最初の交響曲でこんなのみんな見たことなかったのか、欄外にも書いてある。
これだけ言うんだから表現されなければなりません。トレモロ感が消えていくということでしょうか?
ここもすごく面白いのにボートっ聴いてると気づかないんですよね。第2ppなので。。
最後の小節からは第2にsfがついているのに第1はただのpで・・
これもきちっと感じたいでしょう?
これが再現される第4楽章はこうはなっていません。
なんでこっちだけこうなのかなんて考えてみると飽きませんよね・・・

第4楽章の該当箇所。
これは有名かもしれませんね。「巨人」の第1楽章、4楽章を予言する部分、

みんなでクレッシェンドしていきますが、第2ヴァイオリンだけクレッシェンドするなの文字。
最初の交響曲でこんなのみんな見たことなかったのか、欄外にも書いてある。
これだけ言うんだから表現されなければなりません。トレモロ感が消えていくということでしょうか?
ここもすごく面白いのにボートっ聴いてると気づかないんですよね。第2ppなので。。
最後の小節からは第2にsfがついているのに第1はただのpで・・
これもきちっと感じたいでしょう?
これが再現される第4楽章はこうはなっていません。
なんでこっちだけこうなのかなんて考えてみると飽きませんよね・・・

第4楽章の該当箇所。
マーラーの巨人で気になるオーボエ

マーラー交響曲第1番 第4楽章
鳥(Fl)が鳴いていますが、注目したいのは2本のオーボエ(2段目、3段目)です。
ここは普通に聞いていると

こういう5度でハモりながら下降する音型が聞こえます。カッコウの声の変形かな。
楽譜も普通はこうなるはず。
でもマーラーの楽譜は2つのパート間で主役が入れ替わってるんですよね!
こんなのを見ちゃうと
なんでこうなってるの?
吹きにくくないの?
だからわざとそうしてるの?
どんな効果が出るんだろう?
実際どう聴こえるんだろう?
と盛り上がります。
で、この部分、注意深く聴いてみると確かに何か違う気がする・・・