鉄道と音楽

上司同行なので写真を撮って遊んでいるわけにいかない。
スマホ見るふりして撮ったこれだけ。
鉄道マニアな人はこれで何線のどの駅かまで判っちゃったりするんでしょう?
写ったこの景色を見たことがあるとかそういう事ではないんです。
ある改造を受けているこの車両
それが電化された駅にいる
バックを貨物列車が通過中
ホーム間に通過線がある・・でも使われてない
架線を吊ってるビームの形状で電化の年代もわかる
こ線橋の・・・
みたいなのを読み取ってそこからまた別な情報を得ようとする。
音楽にも同じ聴き方があると思う・・

出張先ではとてもよくしていただけて大変勉強になりありがたかった。
対策を打っていった心配ごとは無事何も起こらなかった。
対策なんてしなくても何も起こらないに決まってる・・と言えるのは無事に終わったからだ。
自分の体調が悪くでかなりつらかった。もう終わったからいいか。今日は医者へ行ってきた。
そんなことより、自分は旅行が好きなのだということを思い出してしまったかもしれない。
ビジネスホテルの部屋の鍵を開ける瞬間・・
早朝の知らない町をただほっつき歩く・・・
ローカル列車の車窓にみとれる・・
知らない町でたまたまみた誰だか知らない人の人生を想像する・・
変態みたいか・・
上司が調べた乗り換え案内では目的駅のかなり手前の駅から在来線を使うプランが表示されたみたいだ。タイミングとか料金優先で論理的に行くとそうなるんだろう。
のぞみがとまる新幹線の駅が目的地のすぐ近くにあるのにと思ってはいた。
でもその方がおもしろいので黙ってた。
そもそもそういう段取りは部下がするものだと思うんだけど、やりましょうか?なんて言えばそれはそれでまた余計なんだろう。
最近は効率化で田舎のローカル列車も短編成のロングシート車にすし詰めだったりすることもあります・・
今回は転換クロスシート車で1時間・・もっとか・・のんびりできた。
私が子供の頃、その車両が他線区のエースとして投入されたのを本で読んだ。
閑散区に回されて余生を送るその車両におっさんになってやっと乗ることができ感慨深い。
のんびりと見慣れない景色を見ながらぼーっと過ごす時間はよかった。
訳の分からないようなことを書いていますが、鉄道マニアはこれで私が何線のどのあたりでなんという形式の車両に乗ったかを当てられると思う。
こういう目の前に置かれた細かい情報を組み合わせ、別な意味を読み取る・・という点で私は鉄道趣味とクラシック音楽鑑賞は共通しているものを感じます。
子供の頃の鉄道趣味が中学に入り音楽趣味に切り替わっていったのですが、同じ延長にあるような気がしてる。
出張先の修業時間を知らせるチャイムが受けねらいみたいな音楽だった。
チャイムといえばこの曲
ヴィエルヌのウエストミンスターの鐘。
昔、学校のチャイムをウエストミンスターということはこの曲を聴いて知った。
この曲は組曲の一部だったと思う。
でもほかの曲は聞いたことがない。
オルガン交響曲のフィナーレもすごく有名だけど他の楽章はほとんど聞かない。
同じオルガン交響曲のフィナーレというのでヴィドールとヴィエルヌをよく間違える。
いまだにどちらがどの曲か覚えられない。

この人も盲目だったそうです。
点字楽譜というのが昔からあったようで読むほうは問題なかったみたいだ。
作曲したものを書き留めるのはどうしたんだろう?
自分で点字楽譜っていうのを打てるんだろうか?
助手が採譜したのか?
調子が悪かったせいか新幹線車内の冷房が寒くてつらかった。
歳をとったからかもしれない。
今後は着るものも考えないと。
滝

これはうちの近所にある滝で・・ドーっとか言っていてなかなかです。
写真だと結構いい感じに写っていますが、実際は噴霧された家庭排水的なにおいが辺りに立ち込めているような状況です。
この上流、自治体の公共下水道事業は川の片側までで反対側に計画はなかった気が・・この先もずっとこんな感じなんでしょうか・・
昔はうなぎがいたと聞いたような・・

アルプス交響曲に滝が出て来るのが有名ですが・・
ドーっていう滝じゃないですね。シャバシャバシャバ!みたいな・・

こんな感じ?・・
もっと水量は少なくて勢いがある感じかな・・
半日くらいでそこそこのところまで登って降りてくるわけですよね。。頂上であんな達成感得て大騒ぎなんだし、
上り始めてしばらくたってんのにでっかい滝があるようじゃ全然登り切れないわけで・・・
並走する川も水源に近くて細いんだよと・・
順番が逆転してますが、この手前でずっと小川に沿って歩いていました。
この滝の下流なんでしょう。

このいっぱい流れて見えるのは小川のせせらぎでしょう・・
楽譜の見た目的にも小川っぽいところが笑いますね。
低音がやっているのは山登りの動機というやつで・・・綺麗なせせらぎに対してちょっと不自然な感じで入ってくるんですよね・・
なんか頑張っちゃてんの・・ちょっと疲れ気味というか・・・
で、この先のさわやかな滝で癒されるんでしょう・・
笛

マーラーの交響曲10番は大まかに言って
孤高の自分
妻への愛
妻との愛
悪女としての妻
腐りそうな?自分
(すべてを受け入れたうえでの)妻への永遠の愛の告白。
みたいな内容なんだと思います。
リヒャルトシュトラウスの英雄の生涯や家庭交響曲のように実在した人物をリアルに意識して聴くこともできるでしょうけど・・
作者が最後に目指しただろう所は具体的な人名なんかいらない、もっと普遍的な感じで聴ける曲だと思うんだよなぁ・・・
フィナーレ第5楽章

ミュートした大太鼓の衝撃に続いて、地の底から這い出るような旋律・・
大太鼓は13回鳴るんでしたっけ?
これが何を意味するのか知っているのはお前だけだ・・とかって書き込みがあるんでしたっけ?
ニューヨークで殉職した消防士の葬儀を見て・・とかいうエピソードもあるんですが・・
ぶっちゃけ、お前が浮気なんかするから俺は肉体にも心にも突き刺さるショックで死んじまいそうだよみたいな話でしょう?・・
えっ?ちがう?
実際、この後作者は死んでしまいます。でも感染症が原因なんであって精神的な苦悩が肉体を滅ぼしたとかじゃないんですよ・・
偉大な芸術家伝説としては前者にしといたほうがよさそうですけど・・
よく言われる伝説の心臓病でもないらしいですよ・・
作者の死後、この残された楽譜を持っていたのはその妻なんですが・・・
世界で最も立場が悪いはずのその人から調査補筆のために資料をもらって、演奏か出版の許可をもらうまで・・
ものすごい苦労・・・おだててご機嫌を取って・・よいしょの究極みたいなのでしょ・・があったんじゃないかと想像します。。
どっか不自然に切り取った形跡があったりするらしいですね・・
見られちゃまずい何かだろうと言われていますが、これだけさらけ出しておいてさらに都合が悪いって何なんでしょうね?
このどろっとした這い上がってくるものは楽器指定まで書かれていないのでクック版ではテューバで演奏されます。
6番見たいですかね・・他の楽器の可能性もあったんでしょう・・
無人の・・誰もいない荒野のような場所でホルンが同じ言葉を何度も繰り返していると・・フルートが同じ言葉で歌いだす・・
ここ、ぞくっとするんですよね演奏にもよりますけど・・・すごい場面だ・・・
このフルートソロは大注目の妻のアルマを歌っていると言われています。
妻を描いているんじゃなくて、妻を語っているかのような・・
ここまで悪女としての妻を告発することもずっとやってきているんですが、このフルートはおっさんの純粋な告白でしょう。
ホルンからフルートへの流れは鉛のようになってしまった心の中から柔らかくて濡れている純粋な愛の本音が見えた瞬間みたいじゃないですか?
いや・・もっというとそんなアルマだとかいうのを超えて・・これはすべての音楽の中で一番美しい音楽なんじゃないかくらいまで気持ちが行っちゃいますけどね聴いてる間は・・
オーケストレーションに手を付けてないのに何でフルートソロとか言ってんだという話ですが、

簡易稿にHrとかFlと記述があります。鳥居みたいに見えるのFlでしょ?
ここは楽器のイメージと一体で作曲されているんですね。
この部分には特別な思いがあるわけですね。

クックは弦の静かな伸ばしでフルートを支えます。
途中ハープがアルペジオいれたりします。マーラーはこんな感じで略記・・・ハープで間違いないと思いますし、聴いていてあの単音のアルペジオで間違いないような気もするんですが・・・
この書き方を見てると重音を考えていた可能性はないのかなぁなんて・・
その先の付点のリズムで下降する音型はアルマを示していると言われています。
昔本になっていたのでパクリみたいですが、曲の最終部分はこの音型を叫ぶようにして終わっていきます。

そこにアルムシ!(アルマたん)と悲痛な感じで書き込みがあるんですね。
妻の名を強く叫んで静かに終わっていくんです。
これがただの思い付きや一時的な感情の高まりによる走り書きではない証拠として・・

クック版に採用されることのなかった終結部の別プラン
調性が違いますが音楽は同じみたいですね。
ここにでも同じようにアルムシ!
思い付きの走り書きではなく、故意に記述していることは明らかです。
妻へ向けたメッセージなんでしょう。
お前のために生き!ってのもあるんでしたっけ・・
とはいえ、もしマーラーが急死せず、次の年の夏休みにこの仕事にとりかかたとき、清書スコアにはこれは書きこまなかったでしょう・・
この段階に書いてあるドロドロを、完成し独り歩きし始めた作品にまでに塗りたくる必要がるかどうか・・は、聴く人の勝手かぁ・・
この音楽のすごいところは、そういう具体的な何かを考えなくても十分感動できるものをこの段階で既に持っていることだと思いますね。
何度も言って大変申し訳ありませんが、創作の最初のきっかけとモチベーションは完成された作品と切り離しうる可能性も考えたい。
ちょっと何言ってるかわかんないっぽいけどこの曲、浮気騒動そのものである反面、そんなちんけな話じゃない人間と愛と何かそういう巨大テーマを表現する人類の記念碑的作品になりうる可能性を感じますでしょう?
えっ?
なんだかまた適当に書きなぐったみたいな話になってしまいましたが、このフルートソロが感動的過ぎて大好きですというお話でした。
別に期限も何もないので続けられる限り細かいところに注目して何か感じたら書いてみたいと思います。
叫び?

トーンクラスターといえば・・
マーラーの交響曲第10番の修羅場で・・
説明端折りすぎなのもあれですが、この曲、妻の浮気が作曲のきっかけだと言われています。
実際には浮気がばれる前から作曲し始めていたらしいですが、
別な音楽をあるテーマにいかにもそれらしく充てらるなんて言うことはよくあることです。
なんでお前が分かったようなこと言ってんだと言われちゃいますが・・

第1楽章

第5楽章
複雑で悲痛な不協和音の叫び・・・・その中からトランペットのAだけが突進する。
Aは妻のAlmaを指しているというのは誰も異論はないでしょう。
名場面なんていう言葉を当てていいかわからないですね。

書いてみるとこんな感じでしょうか・・・ちょっとちがったりして・・
前衛でよく見る上から下まで真っ黒というのとは違うんですよね。
12音中何音だこれ・・なんだかすごい不協和音ではあるんですが、広い音域の中で
隣り合う音域では派手にぶつからないようになっているのかな・・
プロコフィエフなんかに出てくるあの攻撃的な不協和音とも違うんですよね。
この前の9番の第4楽章のクライマックスでもいくつかの和音が複合されて強烈な不協和音となっていました。
オーケストラで演奏されると暖かい協和音と激しい不協和音とその両方がこえるという・・・
すごいことになっていた・・
あれもそこをCesが切り裂いていた。
10番のこれも唐突にすごいものが出てきたのではなくてこれまでやってきたことのその先にあるという感じがしますよね。
しかしこの場面すごいですよね‥音楽としては・・
第1楽章では直後にヴァイオリンが叫びますが、もはや奇声ですよね・・
悲痛な思いが爆発している・・または
いやというほどいる多くの人間の中からお前だけを!・・みたいにも取れますが、
そんな単純なもんじゃないかな・・
これを境に音楽は柔らかく温かいものへ変化していくことも重要だと思います。
重要な覚悟も込められている的な・・
食い入るように聴いて、もう全身で聴いて感じて圧倒されて・・
で、なんですけど・・もう100年もたってるんだから・・・妙に具体的なアルマとグロウ何とかが浮気してたとかそれはこの曲を理解するうえで大変大事ではありますが、いつまでもそれ並べて分かったような顔してなくていいんじゃないかと思うんですよね。
それが事実で起源だったとしても、この音楽もそんなもん超越したところに行っちゃってると思うんですよね。
昔、若いころに女の子を取られちゃったかなんかで「俺は泣きながら畳をかきむしったことがある」とか嬉しそうに話しているおっさんがいましたが・・・
かなり年下の最愛の妻の不貞を知って・・これもそういう・・いやもっとギリシャ神話的にすごいことにでもしとけばいいんでしょうか?
でもさー、
こんなことを言ったらほんとにあほ見たいですが、
マーラーくらいの人だもん、
実は自分も各所にいい人いたとかだったら笑いますよね。
それとこれとは別だっていうんでしょ?
・・・まぁいいか、そういう話は別として、
この曲や前作では作者はものすごい悲劇の渦中にある人みたいになちゃってるけど・・
フロイトの診断を受けたとかもあるけど・・・
こんなすごい曲が出来ちゃってるけど・・・
自筆譜には悲痛な走り書きがされているとか・・
顔面蒼白で涙を流しながら差曲したようなイメージもあるんでしょうけど、
このアイディアを思いついたとき・・うれしくて笑いが止まらなかったはずだと私は思いますね。
素晴らしい作品を生み出すことができる・・
強い感情の動きが創作の原動力となり・・みたいな話は感動的なんですが、
一方でそれを題材としてそれとは独立した冷静な芸術家が新たな作品をものにしていくみたいな側面もあると思うんですよ。
そこを置いといて目先の知ってるネタばっかりを気にして聴くのはどうかと最近(私個人は)思うんですよね。
夜のとばり

リヒャルトシュトラウスのアルプス交響曲

夜のとばりが降りて・・・暗闇に浮かぶアルプスの山影・・
冒頭から最高ですよねこれ。
変ロ短調の音階が下降していくわけですが、そのまま全部の音伸ばしっぱなしというか・・
全部の音で埋め尽くす・・
これトーンクラスターですよね。
トーンクラスターと言うと壊滅的な何かみたいな衝撃的な表現になりがちですがこれはいい感じです。
静かな夜、外に出てみるとゴーとかいう訳の分かんない暗騒音を聴いて空気というか大地の存在を感じる・・みたいなのがありますがあれですよね。
この降りてく感じがまさに夜のとばりが下りる・・ですよね。
ものすごく単純なアイディアのようですが誰にもできなかった禁則でしょう・・
しかしこの遠くに見えるアルプスの主題もかっこいいなー
こういう視覚的な何かを音化させるとこの人ほんとに天才ですよね。
その後夜明けに向かっていくところはラインの黄金の冒頭のまるパクリのような気がするんですけど、この人位になるともう誰も文句言わないんですね。
夜じゃないけど嵐の前・・

雲が出てきて不穏な空気になってるなか・・遠くで光っていると思った雷が意外に近くで鳴って・・なんて思っていたら一気にあたりが暗くなっていく・・・
この一気にって感じが出てるのもいいよねぇ・・ここもったいぶっったような演奏じゃいけないですよね・・
こういうの思いついたとき思わずニヤッとしたりするのかな・・

また夜のとばりが下りて暗闇に浮かぶアルプス・・で終わっていくわけです。
最後にヴァイオリンが歌うのは山登りの動機と言われている物でしょう。
山登りの姿を描いたんじゃなくて主人公の姿か気持ちか心の動機なんですよねこれ。
今日一日を思い出しつつ疲れちゃってて・・・最後の大きな下降グリッサンドは眠りに落ちる瞬間でしょう?
そのバックには何があろうとびくともしない安定の山影・・
コントラファゴットがゴーとか言ってるのが少し聴こえるとこれがかっこいいんだなぁ・・・
テューバも2本だし、オルガンも鳴ってるし分厚い和音で・・でっかいなーかっこいいなーアルプスって・・

箱根宮ノ下
来週、出張が決まった。
元々旅行好きだったのだけど、事情を抱えてもう何年か家を開けたことがない。
いつまでも無理とは言えないし、心配しても解決しない、なんとかなるだろう。
仕事としてはきちっとものにしたいと思うけど、最近気分が低迷気味だったので会社には申し訳ないけど気分転換のつもりで行ってやろうと思う。
偉い人同行でなければ終わった後とんでもない方まで足を延ばして、全然外れたルートのローカル列車を乗り継いで帰ってきたいところだけど・・

何年か前、あじさい電車とか言って見に行ったら紫陽花まだ咲いてなかった・・
箱根宮ノ下。富士屋ホテルとかジョンレノンの写真が飾ってある写真館とか・・
この辺りに住んでいるわけではありませんが、この前を通ることがよくあります。
最近はいかないけどふらっといって時期がよければぶらぶら歩いてみてもいい感じのところですね。
人の沢山いるところより、裏の方の蚊がいっぱいいるようなルートが気持ちいいです。
元鉄道マニアなので登山鉄道の80 ‰を見て喜ぶとかいうのも・・
で、プロコフィエフがロシアからどこかへ亡命する際日本を経由したんですが、船便がないとか何とかで半年くらい足止めを食らったらしいんですよね。1918年、大正7年だそうです。
その時の日記が何故かネット上で読めて箱根宮ノ下に来たようなことがありました。
とても美しいところだと言っていたと思う。
ここで誰か作曲の注文をくれた主をフォローしたかったようなことも書いてあった・・会えなかったんだっけ?
ここをプロコフィエフが歩いたのかもなとか思いながら自分も歩いてみたり・・・別に何にも出てきませんが・・
あの日記は面白いです。
日本人のことをまじめで礼儀正しいとほめた後、本音を腹の中に隠してずるがしこいみたいなことも言ってた。
コンサートの報酬が安すぎるとか作曲の報酬をふっかけてやったみたいなこととか・・
日本の聴衆は不協和音に驚かない・それは・もともと(忘れちゃたけど自然のありのままをとらえる日本人的感覚を指していたと思う)そういうものを聴いてきたからだろう・・というのもあった。
これは興味深い。
どこかで接待を受けて両側に芸者がついた。とても楽しかった。
みたいなのもあった。
ピアノ協奏曲第3番は1921年の完成だそうですので日本に滞在した後のものですね。
昔は3楽章に越後獅子というのが使われていると解説に書いてあったのですが、最近はそんなの間違いだろということになっているようです。実際聴いていてもそんなところはありません。
で第1楽章を聴いていて


このあたりに日本の音楽というか光景というか・・感じるんですよね。
あっという間に終わっちゃいますけどね。
赤い鳥居?お祭り?歌舞伎?芸者?何だろうこれ・聴いたことあるでしょう?この感じ・・
私たちは、賛美歌を歌って育ったヨーロッパ人の不協和音への驚き体感することはできないのかもしれません。
でもこの音楽の中に隠されている日本を感じることができるのは私たちだけの特権だったりしないのかな?
元々旅行好きだったのだけど、事情を抱えてもう何年か家を開けたことがない。
いつまでも無理とは言えないし、心配しても解決しない、なんとかなるだろう。
仕事としてはきちっとものにしたいと思うけど、最近気分が低迷気味だったので会社には申し訳ないけど気分転換のつもりで行ってやろうと思う。
偉い人同行でなければ終わった後とんでもない方まで足を延ばして、全然外れたルートのローカル列車を乗り継いで帰ってきたいところだけど・・

何年か前、あじさい電車とか言って見に行ったら紫陽花まだ咲いてなかった・・
箱根宮ノ下。富士屋ホテルとかジョンレノンの写真が飾ってある写真館とか・・
この辺りに住んでいるわけではありませんが、この前を通ることがよくあります。
最近はいかないけどふらっといって時期がよければぶらぶら歩いてみてもいい感じのところですね。
人の沢山いるところより、裏の方の蚊がいっぱいいるようなルートが気持ちいいです。
元鉄道マニアなので登山鉄道の80 ‰を見て喜ぶとかいうのも・・
で、プロコフィエフがロシアからどこかへ亡命する際日本を経由したんですが、船便がないとか何とかで半年くらい足止めを食らったらしいんですよね。1918年、大正7年だそうです。
その時の日記が何故かネット上で読めて箱根宮ノ下に来たようなことがありました。
とても美しいところだと言っていたと思う。
ここで誰か作曲の注文をくれた主をフォローしたかったようなことも書いてあった・・会えなかったんだっけ?
ここをプロコフィエフが歩いたのかもなとか思いながら自分も歩いてみたり・・・別に何にも出てきませんが・・
あの日記は面白いです。
日本人のことをまじめで礼儀正しいとほめた後、本音を腹の中に隠してずるがしこいみたいなことも言ってた。
コンサートの報酬が安すぎるとか作曲の報酬をふっかけてやったみたいなこととか・・
日本の聴衆は不協和音に驚かない・それは・もともと(忘れちゃたけど自然のありのままをとらえる日本人的感覚を指していたと思う)そういうものを聴いてきたからだろう・・というのもあった。
これは興味深い。
どこかで接待を受けて両側に芸者がついた。とても楽しかった。
みたいなのもあった。
ピアノ協奏曲第3番は1921年の完成だそうですので日本に滞在した後のものですね。
昔は3楽章に越後獅子というのが使われていると解説に書いてあったのですが、最近はそんなの間違いだろということになっているようです。実際聴いていてもそんなところはありません。
で第1楽章を聴いていて


このあたりに日本の音楽というか光景というか・・感じるんですよね。
あっという間に終わっちゃいますけどね。
赤い鳥居?お祭り?歌舞伎?芸者?何だろうこれ・聴いたことあるでしょう?この感じ・・
私たちは、賛美歌を歌って育ったヨーロッパ人の不協和音への驚き体感することはできないのかもしれません。
でもこの音楽の中に隠されている日本を感じることができるのは私たちだけの特権だったりしないのかな?
ラジカセ

先週みかけた家族と同じかはわかりませんが、ほぼ同時発生だと思うので・・
子ガモ、1週間で大きさが3倍位になっていた・・
数は・・多分減ってる・・
しかし水草みたいなのを食ってあんなにでかくなれるのか・・
この隣の田んぼは草だらけだ・・何がダメかはわからないけどあっちのは嫌なんだろうな・・・
かーさんは時々周囲を見渡して状況を確認している。
通りかかる人たちがみんな笑顔で話しかけてくる。
自分は誰よりもあのカモの親子を見ていて知ってるんだよと・・
大人気でいいなぁ。
先日、友人が古いラジカセを持っていました。
古いとってもCDが聴けたり、ラジオの周波数はデジタル表示だったり。
今時カセットテープが再生できる装置が現役で存在するんだなんて思ってうれしくなった。
でも考えてみると

うちにはもっと古いラジカセが現役で生きていた。
家族がこれでラジオを聴いているようだ。テープ再生系が生きているかはわからない。
私が音楽に目覚めたころに使っていたラジカセもこんな感じのもの。
もっと地味でボタンやつまみも少なかったっと思う。
元々もっと古い2台のラジカセで1台のイヤホンをもう一台のマイクにセロハンテープでくっつけて・・とかやっていたので、こんな物でも画期的だった。
ラジオのチューニング状況に合わせて光るランプがあって、ランプの光量が最大になる位置を狙うという・・・部屋のどの位置にどんな角度で置くかでも受信状況が変化していた。
そんなラジカセでFMを録音して聴いていました。
テープは従兄のお下がりの英会話教材テープをつぶして使った。
気に入った曲をダビングして作った一本のテープを宝のように毎日毎日聞いていました。
最初に作ったテープは記念にと思い今もしまい込んであります。
もう一生聴けないと思っていたけど、ラジカセあるんだな・・
そのテープを思い出すと当時頭に焼き付けられた音が再生されます。
前に録音してあったものが消去しきれずに聞こえてしまっている・・
録音ヘッドがテープに当たって時に起きるボツッ!というノイズとともに曲が始まる。
メンデルスゾーンの無言歌の第1巻、第一曲「甘い思い出」という曲です。
曲名は作者によるものではないようですね。
楽譜の出版社かなんかによるものでしょう。
朝のクラシック番組で時間の余白に流してくれたものを録音した。
7曲くらいだったか、あれから30年、全曲の無言歌全曲のCDを手に入れてから25年がたってもなお、その7曲を選んで聞いてしまう。
あの頃は何か特別な時期だったのかも。

自分でも弾いてみたいなんて思って楽譜を買ってきたのも25年位前、弾けるようにはならなかった。
なんでも身の程知らずでごめんなさい。
この曲を聴いていていると小さな白い花が咲き乱れる野原・・という光景が頭に浮かびます。
幼いころの具体的な記憶と結びついていると思うんですが、長くなるので・・

このあたり、中学生のころはここが童謡の「小さい秋」に似てると思いながら聴いてた。
ふと立ち止まりハッピーばかりではないというようなことをこぼします・・
その後また明るく進もうとするんですが、単純に冒頭の主題を歌うのではなくて、自分に言い聞かせるような何かを少し歌うんですよね。そしてまた前へ進んでいく・・
甘い思い出なんかじゃない・・今生きているという感じがするんです。
作者が何を思って書いたかは知らない・・超天才だったらしいし、深く感じなくてもこういうこのをサラッと書けちゃうのかもしれない。
こういう曲の世界観は聴き手に委ねられてると思う。
勝手に好きに聴けばいいと思う。
メンデルスゾーンはかなり裕福なユダヤ人の家に生まれ、才能もあって成功を保証されたような人生を送ったために、苦悩を知らない彼は創作者としては三流・・みたいなひがみ的な批判を長くくらっていたみたいです。
何が正しいかは知らないけど、いい曲を聴きそびれた人たちは損をしたという事でしょう・・
この曲はいい曲で好きです。
コントラバス

最近はネットでいろんな曲のスコアが見られうるようになったので、大変面白いです。
以前は自分でスコアを買ってこなければ見られなかった。
買えればいいんだけど、そもそも見かけないという曲も多かった。
ブルックナーの交響曲第8番のハース版はあんなにそこらじゅうで演奏されているのにポケットスコアを見つけることができなかった。
ノヴァーク版のは田舎の楽器屋でもとりあえず店のたしなみみたいな感じで置いてあったのに・・
アカデミアへ行ってボーと探していると・・・あっハース版か?・・あった?・・とよく見るとさらに驚きが・・
なんかとんでもない景色が広がっている・・・第1稿じゃないかこれ・・・
そんなもん買わないわけにいかないので買ってきて眺めた。
第3楽章も全然違うなーなんて眺めているとコントラバスがやたら高い音域で書かれていたりして、こんなの書くからコテンパンにダメだしされるんだろう・・なんて思ったり・・さらに

コントラバスがト音記号で・・・・
第3楽章、後半の大爆発の手前です。
実音はオクターブ下だという事を考えても・・ヴィオラの一部より上を行ってるんじゃないのか?
後の時代の作曲家が狙いでやってるのはわかりますが、この人は真顔で純粋にこれ書いちゃってるんでしょう?
ラヴェルくらいになると、そりゃやってるだろうなという気もします・・・でも見つければやっぱりびっくりしますよね。
子供と魔法を見ていたら

冒頭の子供部屋。
このオーボエは子供部屋の壁紙の模様なんだったと思います。それっぽいですよね。
宿題やれとか言われてやる気もなくて腐っている子供・・
腐ってる感がなんか変な音できこえてくるなーなんて思っていたらコントラバスのソロなんですね・・
ハーモニクスなんですか・・
ト音記号なのが景色的に面白いです。

その先のここも・・
hauteur reelleは実音?
また別途書こうと思いますが、考えてみるとコントラバスが高音で変な和音を伸ばしてるシーンって結構あるんですよね。
怪しい雰囲気作りに最適なんですかね・・・

ここは普通の奏法っぽいですが、他はすべて沈黙している中でのソロだから大注目ですよね。
コントラバスファンの人は萌えたりするんでしょうか・・

第2部、このブゥーンというグリッサンドはトンボが接近してきて羽音を聞かせてるところなんだって・・
ハープがmfでコントラバスはp・・
コントラバスの人も、プロになるような人は・・それで首席でソロをやるような人は「俺の演奏を聴け!」みたいな気持ちで普段からやってるんでしょうね。
こういうソロで目立てるような場のある曲だと萌えたりするのかな。
コントラバスにソロのある曲って、意外にあるんですよね。
オーディオ的にコントラバスソロがあると右手方向の空間表現力の確認が・・・
もういいかそういうのは。
かえるのうた

毎年、隣の田んぼに水が入ると蛙が鳴いて、夕方以降その圧倒的大音響の前では音楽鑑賞どころではなくなる・・・
はずだったのに今年はなぜか聴けてる・・
休耕田だからかぁ・・でも去年は鳴いてたけどなぁ・・卵がかえる場がないんだもんな。世代が尽きていなくなっちゃったのかな・・
昨年気付いたんですが、バロック音楽・・とりあえずバッハの音楽はバックで蛙の声が大音響が鳴り響いていても関係なく聞けるというか楽しめることが判かったんですよね。
絶えず音で埋まっているから?・・
なんでなのかを分析しようにも・・蛙いなくなっちゃた・・
よしこれからはこの時期はバッハを聴いてやる・・なんて思っていたんだけど・・
いなくなってみると寂しかったりして・・もうもどらないんだよね。
こういう事ってあるよね。
バッハについてなにか・・
ブランデンブルグ協奏曲第3番ト長調 BWV1048
小学校で給食の後、片づけを即す音楽が放送で流れていたんですがそれがこの曲の第1楽章でした。
初めて買ったCDが何もわからずに選んだカラヤン・ベルリンフィルのものだったんですが、まさにその演奏だった。
何も知らずに買ってきたCDを聴いていたら給食の音楽が鳴りだして偉くびっくりしたあの日のことを今でも覚えています。

弦楽合奏と通奏低音によるこの曲は2つの楽章がたった1小節のAdagioを挟んでつながっています。
この小節には2つの和音が書かれていますが、チェンバロを弾きながら指揮をしたバッハがここで即興を入れたんだろうと言われているようです。
弦楽器が主役の曲だからということで、ヴァイオリンがソロをとる演奏も多いみたいだ。
最初に買ったカラヤンのは弦楽器が神秘的に奏する和音の上でチェンバロがアルペジオを弾いてトリルでしめるみたいな感じ・・
ずっとそれを聴いていたのでそういうもんだと思っていたけど、ここだけロマン派みたいになっちゃってる気もしないでもない。
適当にYouTubeを聞き流すと
やけに凝った即興演奏を長々とやって最後の最後に弦の2つの和音を伴い終止する。
二つの音を長めに伸ばしてそのうえでチェンバロが軽く歌う。
普通に二つの和音を弾くだけ・・チェンバロもただのアルペジオ。
等・・いくつかのパターンがありますね。
実際はどんな演奏をしていたんでしょうね。
即興の名手だ的に長くやるのはいいけどそれなら初耳にも訴えるキャッチーな何かを聴かせてもらいたいなぁ・・
前後のあの生き生きとした音楽の間に、地味な魚のほしたのみたいな演奏を聴くのは違和感があるんだけどなぁ・・・
お前の耳が鈍いだけだろという話かもしれませんが、私の好みなのでどう感じようが勝手でよね。
しかしさらっと和音だけってのもないだろう・・なんだよそれ・・バッハがそんな音楽を頭に浮かべたりしたかなぁ?
(私の勝手な考えです。すみません)
自分の勝手な好みは、あんまり重くて長いようなソロより、弦の和音の上に載って単旋律がさらっと走り回るみたいな・・
みんな前半の音でいろいろやるけど、最初の音符にはフェルマータついてないから後半でセンス良くいろいろ語るっていうのはどうですか・・
どうですかじゃねーよという話ですが。
隣の休耕田が今後どうなるかが気になります。
しばらくは草も伸び放題で荒れていました。
最近は時々草刈りをしに来てくれるけど、疲れちゃうと帰っちゃうみたいなので虎刈りみたいになってる・・
「水を川から入れるんじゃなくて湧水を直接引いているんだからいい田んぼだよ」と人は言う。
田んぼを借りてでもやりたいという人もいるそうだ。
でももう貸して田んぼにする気はなさそうかな・・
家が建っちゃったらもううるさいとか言われて音楽きけなくなっちゃうのかな・・
市街化調整区域とかいうのはどうにでもなっちゃうもんらしい・・
そうなるともう何を楽しみに生きてけばいいんだろうか・・
色々書かせていただいてるんですが空間的音楽情報鑑賞に萌えているのでヘッドホンで音楽は悲しいです。
聴けないよりはいいでしょうけど・・
お金をかけて防音室化するか・・そんなお金ないか・・
家族怒るかな?
バッハが一時期仕え、ブランデンブルグ協奏曲を書くきっかけになったらしいケーテン侯という人は大変な音楽通だったという。
なのに嫁さんが音楽嫌いで音楽熱が冷めたと書いてあった・・・
そんな王様みたいな人でもかーちゃんに怒られて大好きな趣味を諦めちゃたりすんのかと思ったら笑えてきて泣けてきた。
うちはクラシック好きではないけど音楽嫌いではないのでほんとによかった。
いやほんとに。
ありがとう。
あの丘で
今日、ここ本当に何度も何度も書き直した。
いろいろうまくいかないけど、
いかにも俺って感じだよな。
どうしようもないと思う大っ嫌いな心だけど、大事な俺の心だよこれ。
まぁ、しょうがない。

グスタフ・マーラーという作曲家が最後に完成させた交響曲第9番。
この曲のとらえ方として、作者は悲劇的な人生を嘆きつつ、持病による自分の死の恐怖に震えながら作曲した。その思いや嘆きが色濃く反映されているのだという考え方が根強くよくあると思うんです。
自分もそう思っていました。
どこかのレビュー欄なんかをみるとそれを感じて涙できないものは愚か者だ見たいなことを叫んでいるおやじがいたりして・・
高度に複雑で、深く、尋常でない音楽だという考えは今も変わりません。
でも最近私は、この時彼の心は絶好調で、こんな素晴らしい曲を短期間で生み出し、そのことに彼は感動し、興奮し、ワクワクし、笑いが止まらないような絶頂にあった可能性があると考えています。
こんなことを書けば馬鹿だと笑われるかもしれません。
それでいいです。
彼のように神に選ばれたような芸術家とその作品は、具体的な事実が仮に作曲のきっかけになったとしてもそんなものは超越したところにあるんだと私は思うんです。
高校生のころ、授業中に柴田南雄の「グスタフ・マーラー」という本を読んでいました。
交響曲第9番の章で柴田が4楽章に亡き子をしのぶ歌の第4曲が引用されていると指摘していた。
歌詞のドイツ語を理解できる必要はあるだろうか?と書いてあるのを見た記憶があります。
この曲を聴いている自分を全否定されるのかと思った。
そのわりには結局どんな結論だったかは忘れてしまいました。

歌曲「亡き子をしのぶ歌」第4曲の終わりのところ・・
死んでしまったわが子を思う親、
「あの子はあの丘へ散歩へ行っただけだ!
私たちが追い付けばいいんだ!」
でしたっけ?
この時代はみんな経験したこでもあると思うのですが、マーラーも実際わが子をなくしています。
そのことが作曲に少なからず影響を与えていると考えるのは自然なことでしょう。

交響曲第9番の最後のページ
この音楽は間違いなく人が死んでいく場面です。
このバイオリンの旋律がその引用だとすれば、
上記の歌詞を思い出してみれば・・・
衝撃的ですよね。
死を悟った者・・・もうすぐ・・・やっとあの子に会える・・・
しかし、だからと言って一本調子にこの箇所をマーラー個人の人生体験とその告白みたいな解釈で聴くのは私は違うと思う。
この旋律、下降する途中でふっと休符になります・・すべての音が消え・・
この休符は大変印象的です。
この休符の後、何かが変わる。
私も人が死んでいくところを見たことがありますが、私たちには見えない何かを目を見開いてみていましたよ・・
光か何かが迎えに来るんでしょうかね・・
ここはなにか、普通と違う光に満たされている気がします。
柴田はこの旋律が楽章中に3回現れると言っていたと思う。
譜例はなかったと思う。
最初は第2ヴァイオリンに隠すように・・というのが印象に残っています。


ここかな・・
対向配置じゃ隠れないし、
隠すようにって思い切りffじゃんか・・なんていったらいけないんでしょうね。
また脱線すると90年代になんでか忘れたけどマーラーについて書いた本が乱発されていたことがあります。
そのうちの一冊を読んでいると9番の解説で柴田の言葉が丸パクリされていた・・
しかもこの著者それがどこだかわかってないなという感じだった。
この曲を聴くわけでもなく、原稿依頼されて適当に資料を読んで適当なことを書く・・程度だったんでしょう。
あれは読んだ時に情けない気分になった。
私的にはこっちも気になります。

伴奏音型?転回形?・・
これが、

第3楽章の中間部や

4楽章にも出てくる。
どちらかというと私はこちらの方が耳に残ります。
なにかを訴えていると思う。
なんかまとまってないですね。
このあたりは、気持ちが曲に向いたときにもう一度考えて何か書いてみたいなと思います。
いろいろうまくいかないけど、
いかにも俺って感じだよな。
どうしようもないと思う大っ嫌いな心だけど、大事な俺の心だよこれ。
まぁ、しょうがない。

グスタフ・マーラーという作曲家が最後に完成させた交響曲第9番。
この曲のとらえ方として、作者は悲劇的な人生を嘆きつつ、持病による自分の死の恐怖に震えながら作曲した。その思いや嘆きが色濃く反映されているのだという考え方が根強くよくあると思うんです。
自分もそう思っていました。
どこかのレビュー欄なんかをみるとそれを感じて涙できないものは愚か者だ見たいなことを叫んでいるおやじがいたりして・・
高度に複雑で、深く、尋常でない音楽だという考えは今も変わりません。
でも最近私は、この時彼の心は絶好調で、こんな素晴らしい曲を短期間で生み出し、そのことに彼は感動し、興奮し、ワクワクし、笑いが止まらないような絶頂にあった可能性があると考えています。
こんなことを書けば馬鹿だと笑われるかもしれません。
それでいいです。
彼のように神に選ばれたような芸術家とその作品は、具体的な事実が仮に作曲のきっかけになったとしてもそんなものは超越したところにあるんだと私は思うんです。
高校生のころ、授業中に柴田南雄の「グスタフ・マーラー」という本を読んでいました。
交響曲第9番の章で柴田が4楽章に亡き子をしのぶ歌の第4曲が引用されていると指摘していた。
歌詞のドイツ語を理解できる必要はあるだろうか?と書いてあるのを見た記憶があります。
この曲を聴いている自分を全否定されるのかと思った。
そのわりには結局どんな結論だったかは忘れてしまいました。

歌曲「亡き子をしのぶ歌」第4曲の終わりのところ・・
死んでしまったわが子を思う親、
「あの子はあの丘へ散歩へ行っただけだ!
私たちが追い付けばいいんだ!」
でしたっけ?
この時代はみんな経験したこでもあると思うのですが、マーラーも実際わが子をなくしています。
そのことが作曲に少なからず影響を与えていると考えるのは自然なことでしょう。

交響曲第9番の最後のページ
この音楽は間違いなく人が死んでいく場面です。
このバイオリンの旋律がその引用だとすれば、
上記の歌詞を思い出してみれば・・・
衝撃的ですよね。
死を悟った者・・・もうすぐ・・・やっとあの子に会える・・・
しかし、だからと言って一本調子にこの箇所をマーラー個人の人生体験とその告白みたいな解釈で聴くのは私は違うと思う。
この旋律、下降する途中でふっと休符になります・・すべての音が消え・・
この休符は大変印象的です。
この休符の後、何かが変わる。
私も人が死んでいくところを見たことがありますが、私たちには見えない何かを目を見開いてみていましたよ・・
光か何かが迎えに来るんでしょうかね・・
ここはなにか、普通と違う光に満たされている気がします。
柴田はこの旋律が楽章中に3回現れると言っていたと思う。
譜例はなかったと思う。
最初は第2ヴァイオリンに隠すように・・というのが印象に残っています。


ここかな・・
対向配置じゃ隠れないし、
隠すようにって思い切りffじゃんか・・なんていったらいけないんでしょうね。
また脱線すると90年代になんでか忘れたけどマーラーについて書いた本が乱発されていたことがあります。
そのうちの一冊を読んでいると9番の解説で柴田の言葉が丸パクリされていた・・
しかもこの著者それがどこだかわかってないなという感じだった。
この曲を聴くわけでもなく、原稿依頼されて適当に資料を読んで適当なことを書く・・程度だったんでしょう。
あれは読んだ時に情けない気分になった。
私的にはこっちも気になります。

伴奏音型?転回形?・・
これが、

第3楽章の中間部や

4楽章にも出てくる。
どちらかというと私はこちらの方が耳に残ります。
なにかを訴えていると思う。
なんかまとまってないですね。
このあたりは、気持ちが曲に向いたときにもう一度考えて何か書いてみたいなと思います。