ほんの一部すぎ

これほたるです。
たくさん光って飛んでいたので写真をなんて思いスマホを取って戻ってきたら、みんな光るのをやめてしまった。
次の日に見に行ったら一つの光も見えなかった・・
あ・・・・
次の日・・また無邪気に光って飛んで見せてくれた。
私クラシック音楽が好きで30年くらい聴いてきましたが、聴いている曲の大半は10代のころに覚えたものなんですよね。
どの曲について書こうとしても「この曲を初めて聴いたのは中学生の・・・」。
いろんな曲を聴いて知って色々聴きつくしてやるんだ・・みたいなイメージが何となくあったんですが、実際は結構有名な曲も未聴なまま・
中高生の俺は訳もわからないのに貪欲にいろんな音楽を知りたがったんだな・・その後の俺は何やってんだ。
ブログを見に行かせていただくと聴いたとないけど聴いてみたいと思うような曲のYouTubeを貼ってくださっている方がいてしばし聞き込んだりしています。
知らない曲を聴いてみようと思う力がかなり弱っているので思いがけず出会う音楽はありがたいし楽しみです。
コメントでいろいろ教えていただけるのも楽しいです。
一回きりの人生、知って面白いとか楽しいとか思ったことの積み重ねですので豊かになると思います。
中高生のころにビデオに録って何回も聴いた曲が何曲かあります。
あまりにも聞きすぎてそれが頭の中に固着してしまい・・どの部分で何が写っていて奏者がどんな表情をしていたのか、弓がどう動いていたか・・鍵盤のどの位置に手があったか・・みたいなのが今でも出てくる。
CDを買っても頭にあるそれとの違いが気になってしまい、同じような演奏を探してしまう。
同じ演奏者のCDを見つけてもあの時と違う・・
というのに苦しんだこともありました。
色々な演奏を受け入れて聴けるようになったのは本当いつい最近。
そんな1曲のなかにプロコフィエフのバイオリン協奏曲第2番ト短調があります。
よくまとまった2番よりも1番のが好きだ・・とか言って通ぶりたいところですが2番のが好きです。
みたのはN響アワーで独奏はチョー・リャンリン、指揮はデイヴィッド・アサートン。
これが特別な名演だったとかいうんじゃなくて何もないところに刷り込まれて固着してしまったんだと思う・・いや、名演だったかも。
この曲のあらゆるところが好きですが、例えば二楽章の後半

このあたりを聴きながら萌えていた覚えが・・
悪魔の歌のように始まりグロテスクな部分も多いこの曲の中で、汚れを知らない子供の心のような音楽・・これまで変奏されてきた要素が皆出てきてコラージュみたいに重ねられている・・そこに独奏ヴァイオリンが(書いてあるけど)即興的に絡んで歌う・・・
ヴィオラのピッチカートとクラリネットが重なる伴奏音型にはちみつとレモンみたいなイメージがあります。
独奏ヴァイオリンはすごく高い音域でやさしく小さく歌い始めるんですが、熱く叫んだり、色々やりながらG線にまで降りてきて深く太く歌いこんだり・・
見ると特に表情の指示は書いてないんですね。
独奏者、あなたの心で歌ってくれ・・みたいな。
書いてなのに勝手に歌わないで!・・みたいなのありますよね・・・ここでそんな解釈したらダメだけど
ここでグッとくる演奏をしてほしいな・・心は人それぞれだもんね、自分の心と合わないとあれーなんて思っちゃうんだよな・・
聴いているとこの音楽はクラシック以外のジャンルの影響を受けているような印象を受けます・・他のジャンルを聴かないのでなんかいいようもないんだけど・・
ロシアの作曲家たちが革命後欧米に亡命して映画音楽文化みたいなのを作ったとどっかで読んだこともあるし、順番が逆かもしれない・・
昨日は別な曲を聴いていたんですが、プロコフィエフという作曲家も面白いですよね・・多作家みたいだけど、なにやってんだこれ?みたいな中に泣きたくなるような音楽がぽっと出てきたりして・・
日本に来たこともあるらしい・・どこかで読んだ日記が本音だらけで面白かったような・・
まだ聞けてない曲がたくさんあるんだよな・・聴けるかな。
ついでに

プロコフィエフのスコアは、移調楽器がすべて in Cで書いてあるんですよね。
楽器の配置も音高順なのでトランペットがホルンの上に書いてある。
かえって見にくいような・・・
in Cは私のような素人が面白半分で眺めるのにはいいですが・・・
伝統や他人の都合より書いていく自分の都合優先で押し通そうとしたみたいですが、
普及しなかったんでしょう?
普通の作曲家がやったら馬鹿にされそうだもんね。
これを堂々とやれるところもこの人のすごいところなんじゃないでしょうか・・