ずれてる
私は道北が大好きです。住んじゃいたいくらいだ。
でも、冬の生活なんか大変を通り越して私には無理だろう。
たまにしか見られない・・・今はもう行くこともできない・・これくらいがいいのかもしれない。
山道なんか走ると北キツネだらけだった。
住宅街にもいたけど、ちょっと様子が違った。
一度人から食べ物をもらってしまうと、頭の中の餌をとるための大事な部分が壊れてしまい、もう死ぬまでひとから餌をもらうしかできないんだそうだ。
そういう狐にも何度かあった。
山奥にもいた。誰かが車から何かあげたのか、ああして道沿いでずっと待っているのか・・・
人はいいと思って与えようとするけれど、それは殺すということなのか・・

このキツネはそうじゃない。
道路を渡ろうとしていたのだけど、こちらに気付くと逃げるどころか、若干近寄ってきて私たちの方をじっと見ながら何かを訴えてきた・・
その時は取った獲物を見せながらどうだすごいだろう・・と自慢してくれたのかと思っていた・・・
あぁかっこいいよ!なんて思ったりして・・
とてもいい思い出のつもりだったんだけど・・
今この写真を見るとくわえているのは子ぎつねのように見えなくもない・・
何枚かある写真を見ていると動きが感じられない・・・
こっちをじっと見てるでしょう?
写真を通して尚、何かを訴えているようにもみえる・・
でっかいしっぽだな・・本体くらいあるじゃんか・・
この後稚内へ行き、

ロシア料理というのを食べた。
実現するとは思えないけど、稚内からサハリンまでの海底トンネル構想というのがあるようだ。
技術的には青函トンネルよりもむしろ難易度が低いらしい。
船でもいいから稚内から樺太へ渡り、シベリア鉄道でヨーロッパまで行くとかやってみたいなぁ・・
鉄道好きではあるけれど、多分何日も同じ車窓が続くのには耐えられないかもな。
チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。
30年前、音楽に興味を持たころにみたN響アワーのオープニングがこの曲だったんですよね。
もっと前、テレビの鳥人間コンテストとかいうのの開始でちょっと流れてた・・
クラシック聴き始めの頃って、とにかくなんとなく知ってる曲に耳が行っちゃうからこれを聴きたいと思った。
友人宅にあったクラシック全集みたいな中にこのCDがあったのでカセットテープにダビングしてもらい繰り返し聞いていました。
ギリレスのピアノとメータ・ニューヨークフィルのやつ。
後に別な本で知ったけどエミール・ギリレスはソ連の共産党政権下であんなすごいピアニストなのにアパートに住んでアップライトピアノで練習していたそうだ。
始めは序奏が再現されないことに違和感を覚えた・・
今は違和感は感じないけど、あんなすごい素材を用意できたらどこかで再現させてくなるものじゃないかと思うのにスパッとあそこだけにできてることがかえってすごいと思う。
ただ、あれを第1主題と誤認してしまい混乱してる人もいっぱいいるんじゃないでしょうか・・
解ればその後の変ロ短調の音楽もわかりやすいんだけど。
その2楽章で、

ピアノが伴奏に回りオーボエとチェロが歌う場面なんですが、ピアノの頭に休符があるんですよね。
ンタンタンタ、ンタンタンタ、となっているんだけど、初めて聞いたときにこのピアノの音を博の頭と感じてしまい、
ピアノがタンタンタン、タンタンタンと鳴っているんだと思ってしまった。
結果、オーボエとチェロが妙に早めに出ているようなおかしな演奏に聞こえてしまっていたという・・
恥ずかしいのはあれから30年たった今でもその聴き癖がのこっていて、ここに来ると休符を意識してンタンタンタ、ンタンタンタとか言いながら聴いているという・・
もう一曲、交響曲第5番の第2楽章、中間部のクライマックスを抜けたところ

爆発の後間がいて、全弦楽器のそろったピッチカートが鳴り始めるんですが、最初に休符があります。
2拍目に音があるんですが、ここも最初の休符を感じないままだと1拍目に音があるように感じ、自分感覚が音楽と1拍分ずれて聴いてしまう。
そうするとチェロの入りが一拍早いようなあれ?ということになる。
こういう感のない私は音楽聴いちゃいけないんでしょうかね・・勝手に聴きますけど。
実演だと指揮者が見えるから・・あれか・・
4番の2楽章にもこんなのがあったと思う。
この人こういうのが好きなのかな・・
こういう時、聴き手が居場所を見失わないように目印的な何かをわざと鳴らしたりという作曲家もいると思う。
鈍い私は鈍く聴きゃいいや・・
ずっと、みんなが簡単にできることができない自分に失望して・・・みたいだった。
最近はどうでもいいわと思うようになって来た。
歳をとって図々しくなることは素晴らしい。
でも、冬の生活なんか大変を通り越して私には無理だろう。
たまにしか見られない・・・今はもう行くこともできない・・これくらいがいいのかもしれない。
山道なんか走ると北キツネだらけだった。
住宅街にもいたけど、ちょっと様子が違った。
一度人から食べ物をもらってしまうと、頭の中の餌をとるための大事な部分が壊れてしまい、もう死ぬまでひとから餌をもらうしかできないんだそうだ。
そういう狐にも何度かあった。
山奥にもいた。誰かが車から何かあげたのか、ああして道沿いでずっと待っているのか・・・
人はいいと思って与えようとするけれど、それは殺すということなのか・・

このキツネはそうじゃない。
道路を渡ろうとしていたのだけど、こちらに気付くと逃げるどころか、若干近寄ってきて私たちの方をじっと見ながら何かを訴えてきた・・
その時は取った獲物を見せながらどうだすごいだろう・・と自慢してくれたのかと思っていた・・・
あぁかっこいいよ!なんて思ったりして・・
とてもいい思い出のつもりだったんだけど・・
今この写真を見るとくわえているのは子ぎつねのように見えなくもない・・
何枚かある写真を見ていると動きが感じられない・・・
こっちをじっと見てるでしょう?
写真を通して尚、何かを訴えているようにもみえる・・
でっかいしっぽだな・・本体くらいあるじゃんか・・
この後稚内へ行き、

ロシア料理というのを食べた。
実現するとは思えないけど、稚内からサハリンまでの海底トンネル構想というのがあるようだ。
技術的には青函トンネルよりもむしろ難易度が低いらしい。
船でもいいから稚内から樺太へ渡り、シベリア鉄道でヨーロッパまで行くとかやってみたいなぁ・・
鉄道好きではあるけれど、多分何日も同じ車窓が続くのには耐えられないかもな。
チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。
30年前、音楽に興味を持たころにみたN響アワーのオープニングがこの曲だったんですよね。
もっと前、テレビの鳥人間コンテストとかいうのの開始でちょっと流れてた・・
クラシック聴き始めの頃って、とにかくなんとなく知ってる曲に耳が行っちゃうからこれを聴きたいと思った。
友人宅にあったクラシック全集みたいな中にこのCDがあったのでカセットテープにダビングしてもらい繰り返し聞いていました。
ギリレスのピアノとメータ・ニューヨークフィルのやつ。
後に別な本で知ったけどエミール・ギリレスはソ連の共産党政権下であんなすごいピアニストなのにアパートに住んでアップライトピアノで練習していたそうだ。
始めは序奏が再現されないことに違和感を覚えた・・
今は違和感は感じないけど、あんなすごい素材を用意できたらどこかで再現させてくなるものじゃないかと思うのにスパッとあそこだけにできてることがかえってすごいと思う。
ただ、あれを第1主題と誤認してしまい混乱してる人もいっぱいいるんじゃないでしょうか・・
解ればその後の変ロ短調の音楽もわかりやすいんだけど。
その2楽章で、

ピアノが伴奏に回りオーボエとチェロが歌う場面なんですが、ピアノの頭に休符があるんですよね。
ンタンタンタ、ンタンタンタ、となっているんだけど、初めて聞いたときにこのピアノの音を博の頭と感じてしまい、
ピアノがタンタンタン、タンタンタンと鳴っているんだと思ってしまった。
結果、オーボエとチェロが妙に早めに出ているようなおかしな演奏に聞こえてしまっていたという・・
恥ずかしいのはあれから30年たった今でもその聴き癖がのこっていて、ここに来ると休符を意識してンタンタンタ、ンタンタンタとか言いながら聴いているという・・
もう一曲、交響曲第5番の第2楽章、中間部のクライマックスを抜けたところ

爆発の後間がいて、全弦楽器のそろったピッチカートが鳴り始めるんですが、最初に休符があります。
2拍目に音があるんですが、ここも最初の休符を感じないままだと1拍目に音があるように感じ、自分感覚が音楽と1拍分ずれて聴いてしまう。
そうするとチェロの入りが一拍早いようなあれ?ということになる。
こういう感のない私は音楽聴いちゃいけないんでしょうかね・・勝手に聴きますけど。
実演だと指揮者が見えるから・・あれか・・
4番の2楽章にもこんなのがあったと思う。
この人こういうのが好きなのかな・・
こういう時、聴き手が居場所を見失わないように目印的な何かをわざと鳴らしたりという作曲家もいると思う。
鈍い私は鈍く聴きゃいいや・・
ずっと、みんなが簡単にできることができない自分に失望して・・・みたいだった。
最近はどうでもいいわと思うようになって来た。
歳をとって図々しくなることは素晴らしい。