寝よう

延々続く長大ローカル線でジョイント音を子守歌に・・とかやりたいんだけど。
嫁さんが急に「医者に行く機会があったら睡眠時無呼吸症について相談してみて」と・・
え?
他人事かと思っていたら、どうも私にもそんな挙動があるれるらしい・・
え俺も?・・でもありそうな話だな・・
昔々、神経が高ぶって夜なかなか寝付けず、どんどん時間が過ぎて朝方になってしまうという事がよくありました。
今考えると神経とかじゃなくて若いのに運動不足だっただけかもしれない。
寝られないという状況はちょっと怖い気もする。
その後ブラック企業みたいなところにいた時、どこだろうと何があろうと寝られる体になりました。
とにかく寝られる時に寝とかないと自分の体が危険にさらされる状況だったから。
寝よう思って目を閉じたつぎの瞬間に目覚ましが鳴る・・・
一瞬すぎだろ・・みたいな毎日だった。
あれはつらかった。
辞めた後もすぐ寝られる体質はずっと維持できていたんだけど、あれから20年近くたち最近また寝られないなという日があるような気もしてきた。
今朝も悪夢を見た。
整体師に言わせると夢を見るのも体がずれてどこだかを刺激するのが原因というけど・・
睡眠時無呼吸症も整体で治してくんねーかな。
クラシックの世界に、「子守歌」と呼ばれる曲がたくさんあります。
彼らにとっても大切なものなんでしょう。
ショパンにも子守歌という曲があります。
夢のような子守歌・・なんかあの・・・子供をあやすきらきら光る飾りみたいなのがくるくる回ってるような・・これも変ニ長調だ。
みんな最初はそういうところで安心して眠るところからから始まるはずなのにね・・・
作者自身もこれを変奏曲だと言ったという事だけど、普通の変奏曲ともちょっと違うと思う。
ほとんど変化しない左手の伴奏・・和音は入れ替わるけど、ベースは曲の最初から最後まで常にDesに固定されてついに一度も動くことはない・・
そうだねこれ、ゆりかごみたいだ。
この固定感が私の引っかかるところで、頼むから少しどこか他のところへ行ってほしい・・なんて思いながら聴く・・
でももし転調したりして心底楽しめる曲になってしまったら・・寝られないではないか・・
子守歌だからな・・・
ショパンは別に実用的な睡眠導入音楽が書きたかったわけじゃないでしょう。
この曲、とても有名でよく演奏され聞かれているんだと思うけれど、ショパンの名曲・・とかいうのを別にして冷静に見るとかなり特殊なつくりの変な曲なんじゃないかと思うんですよね。
ベースがずっと同じ音で持続してそのうえで音楽が展開・・というのはよくあるといえばあるんだけど、もっとこう・・下が固定されてるのにこんなに自由に動けるんだ・・的な楽しみを聴かせてくれるし、そこが腕のみせどころだったりするわけですよね。
これはあえてそういう変化をつけることを避けているように見える。
ショパンの変奏の技術と華麗な旋律!とか言って喜こぶだけじゃなくて、なんかこう・・あえて挑戦的に変な事やってる感を感じて喜ぶというか・・
ショパンはそんなこと考えてない・・のかもしれないけど、問題は私がどう感じるかだから、適当に言わせといて。

自筆譜で修正した跡を見ると始めどう考えてたのか知りたくなりますよね・・
大きなお世話だし、のぞきみたいだけど。

始めの2小節の伴奏は後から追加したみたいにみえる。
もともとは、いきなり旋律を歌いだしていた。
へー

最後の音は伸ばすつもりだったのを短く終わることにした?音も間引いた?
自分の子供はいなかったショパン。子供は好きだったようなことをどこかで読んだ。
この曲を書いたとき、病気も絶望的にひどくなっていくし恋人の気持ちも離れかけてて何だかつらかったんじゃないのかなぁ・・
それでこの曲かぁ。
晩年の手紙か何かで「子供のころにどんな歌を歌っていたのかも、もう思い出せません」というのがあった気がする。
あれが忘れられません。
いつのまにかショパンが亡くなった年齢を超えてた。
私はまだ全然死にたくないです。
眠りにつく直前くらいの瞬間って、この世で一番幸せですね。
もういやなことは忘れて、ゆっくり寝ましょう。
怖がり

先日こんなところへ行きました。こことは別な場所ですが、私の住んでいる街からも富士山が見えます。
私の家からは、手前に小さな山がかぶって直接富士山を見ることはできません。
ちょっと歩くだけで見えるんですが。
近所の古くからある家の方に聞い話だと、この辺りの江戸時代から続くような家はみんな背後に山が来て富士山が見えない位置に母屋が建っているというんです・・・あぁそういえばそうだな・・
昔富士山が噴火したとき、焼けた石がたくさん飛んできて家屋敷を直撃した。
山に隠れたところは山が盾となりたすかったから・・らしいですよ。
富士山が噴火したのはもう300年以上も前なので、そんな昔の考えが今に伝わっているのかと思うと驚きます。
教えてくれた人の家には昔100年くらい前のこのあたりの話をリアルに教えてくれるおばあちゃんがいた。もうとっくに亡くなっているけれど、これから世代が変わってこの話も消えていくんでしょうね。
なんとなく溶岩流ばっかり気にして「ここまでは来ない」みたいなことを言ったりもするけれど、焼けた石が飛んでくるんじゃ・・・
噴火の兆候があったらとにかくどこか遠くへ逃げないと危ないのか・・
また整体に行ったんですが、「力抜いて・・もっと力ぬいて!・・まだ抜けてない・・」みたいな。
ゴキッ!っの時ビビッて力が入ってるとごりって行かないんですよね。
大丈夫だとわかっていても体が勝手に怖がる。
そう、私は異常な怖がりなんです。
前世なんていうものがあるか知らないしあっても記憶もないんだから関係ないんだけれど、もしかすると前世で相当怖い目にあったんだろうか?
逆に怖がらな過ぎてまずいことになった反動とか・・・
来世なんてあったって関係ないんだけど、つぎの人が困らないようにこの世はいいもんだったと思って終わっていきたいんだけど・・
あんなのロマンティックに情熱的に歌っていたブラームスのピアノソナタ第3番の第2楽章・・
そのあと誰と戦ってんだというような情熱的なスケルツォの第3楽章を挟んでこの第4楽章・・
鬱になっっちゃってる・・
よく聞くと第2楽章のあのテーマなんですよねこの萎れちゃってるの・・
美しい思いがガラス瓶の中でホルマリン漬けになって青白く光ってる・・
またやらたに運命のテーマがまとわりついちゃって・・
この楽章には間奏曲(回想)という副題がつけられています。
まだ二十歳の作品で人生の本当の苦悩を知るのはこれからだからね。
マーラーもそうだったけどとりあえずの立ち向かうべき苦悩とは失恋とかなんでしょうか・・

失恋とかは関係ないおっさんだけど、あんなに明るく気持ちよかったはずの気分が、なんで?というくらい下降して凍り付くという事は時々あります。
危ないんだよそういうとき。
自分で強いアンカーみたいなのを打って引っ張ってないとどんどん流されていっちゃうから・・
こんなことを書いてたら本当にそうなっちゃって昨日・・
しかしこの楽章も運命動機だらけ・・後ろのほうは運命がなんだかすごい壁になって迫ってきたりして・・
ちょっと運命運命いいすぎだろ・・それでお前はどうなんだよ・・
違うか。
何か二十歳の実体験が反映してるんでしょうねこの辺りには。
なんででもいいけれど、人生と時間は一方通行。
個人の気持ちや都合に合わせて止まったり減速したりもしてくれない。
どんどん過ぎて行っちゃってあっという間に終わってしまう。
それはわかるよ。
怖がってると終わっちゃうのもしってるよ。
色々終わっちゃった・・
マリア

実体感を伴うやけに具体的でリアルな夢を見た。
頑張ってみよう・・という内容で始まったけど、
お前の居場所なんかないと見せつけられる感じで終わった。
目が覚めると雨・・
後味が悪い。
電話が鳴ったけれど出る気がしなくて・・・
今LINEとかいうのがあって逃げられないのね・・
俺はこれからどうしたいんだろう?
海辺のカフェで見た鯵丼の文字を思い出し、雨の中スーパーへたたきを買いに行く。
素直に帰らず寄り道をし、見慣れたある細道を見たところでふっとある考えが浮かんだ。
スイッチが切り替わったかのように弱気でいるのが恥ずかしくなる。
と言って考えが変わるわけでも、全部晴れるわけでもないけれど・・
こういうの全部導かれているのかもな・・
思うに家こもって一人で色々考えられる時間があるといけないと思う。
まぁいいや。鯵も鯖もうまかった。
適当に聞き流して終わるはずだったグレツキの交響曲第3番をまじめに聴きました。
20年前に興味本位で聴いたときはヘッドホンだった。
ちゃんとしたオーディオで聴くと全然違うものが聴こえてくる。
前衛最先端で暴れてた作曲家の変化の過程にある曲らしい。
1976年の完成で、最後はイ長調の主和音で結ばれていた。
この手の現代ものにありがちな茶番臭さは今は感じなくていい気がする。
絶賛するとちょっと馬鹿見たいかなとか・・でもそんなの大きなお世話だ。
第1楽章はコントラバスが単独で24小節の旋律を歌うとことから始まる。
悲しみの歌だ。
これが5度上に1小節遅れて積み重なり繰り返されるカノンとなっている。
世界中で歌われる悲しみの歌。

全部の声部が出そろったところ。
楽譜で見るとわかりやすい。
このあたりを頂点としていったん歌は統合縮小されて行き、

同じ一点に重ねられる。
音が4つあるように見えるけど、ト音記号だったりヘ音記号、ハ音記号だったりするからで実際みな同じ音です。
突然訪れるこの瞬間は結構衝撃的だ。
一つに集められた世界中の悲しみを一手に引き受けるのは聖母マリア。
歌詞として歌われるのはわが子を失った母の嘆きだけど、象徴的なもので言葉を具体的に受け止めないくてもいいと思う。
言いたいことはこれを聴いて少し気持ちが変わったという事。
よくネットで見かける癒しという言葉は、私にはちょっと違うと思う。
音楽ってすごいよな。
歴史的な大作家の作品でなくても、金もうけのために書かれた茶番みたいなものでも、人をだまそうとして書かれたものでも、聴いていいなと思ったら素直にそれでいいんだよ。
他人は関係ない。
作者がどう思っていたかももう関係ない。
全部全然関係ない。
聖母マリアのあと、悲しみがなくなるのかというとそうではない。
また、元の場所へ戻っていく。
意外に厳しいんだよな。
聖母マリアだって自分の悲しみをなかったことにはできないんだもんね。
いい時間
時間が取れて出かけた。
また雨だっていうし、太陽が出ている間にどうしてもどこかへ行ってみたかった。
なんかこう心も湿っちゃって変になっちゃいそうだったので。
紅葉を見てみたかったけれど、人の集まる観光地は嫌なので峠の旧道を走ってみる。

色が付き始めていてなかなかいい感じだ。
でも写真にはうまく収まってくれない。
写真と言ってもスマホだけどね。

いつも思うけれど写真を撮ろうなんて思っていると、そればかりに意識が集中して写真を撮ってた記憶しか残らなかっったり、写真を撮ることに縛られた行動になってしまったりする・・のでダメだ。
と言って何にも取らずに見るだけだと後で寂しい。
いい天気の下、太陽の光を浴びて湿った心も柔らかくなった気がした。
空の青、木々の赤、黄、緑、土の茶・・色々見てなんとなく満足。
帰りに気に入ったカフェにまた寄ってみる。

おっさんなのに毎回ケーキ食ってるところがあれですか。
コーヒーもおいしかった。何度も通ってると俺でも名前と味がわかるようになるのかなぁ・・
このお店、迫力のある生け花みたいなのから始まってその辺にある小さな置物までなんか凄みを感じるんですよ。本物感というか・・
囲炉裏の炭にも火が入ってた。
ものすごく居心地がいいというだけでなくてなんか心もほぐされそうです。
休日はすごく混むみたいで近寄れない。いまいいお店はSNSですぐ有名になるんでしょう。
隣のお客さんは店主?といい感じで話をしていた。
俺は話しかけるなオーラが透けて見えている思うけど多分そういうのも簡単に見ぬいて一番居心地のいい形にしといてくれる気がする。静かですいてる日に行ける機会があったらまた行きたい。
若い若いブラームスが書いたピアノソナタ第3番
この曲も本当に彼らしく、運命に縛られ苦悩と戦う・・みたいなテーマで書かれていますが、ちょっとやりすぎというか頑張りすぎというか笑っちゃう・・笑っちゃいけないのか・・若いよねー。
まだ二十歳の、これから世に出て暴れてやるんだという若者の情熱があふれちゃってますよね。
40歳を超えて交響曲を書いてた頃のブラームスとは別人のロマン派の星みたいなブラームスですよ。
いろんな部分でもうピアノの世界にとどまっていられずオーケストラの音響を感じさせる。
左手がやたらに超低域でごうごう言っいて若獅子が自分の強さを見せつけようとしているところみたいだ・・
その第2楽章。
あふれるエネルギーをどこに持って行っていいかわからない暴発しそうな若者・・の、恋の場面ですね。

この小節線より1拍ずれてる感じの旋律が何かやってやろうって感じですよね。
右上にごちゃごちゃ書いてあるのはどこかの詩人による恋の詩らしいですよ。
若いねー。

後半恋の歌を情熱的に歌って行く場面。チャイコフスキーの交響曲第5番ややマーラーの交響曲6番のAndante楽章のしめで熱く歌われているあれとおんなじ世界だ・・聴いていてオケの音楽を感じさせられる。書いた本人もそんなことを感じて書いてると思う。
そのクライマックス、思いが抑えられずに叫んじゃってどうにもならないところ・・
楽譜の詩に抱き合うとあるからそういう事でしょう。
この場面が変ニ長調であることに注目しておきたい。
その後のブラームスという人は、こういうの人前で見せちゃいけないと自分に言い聞かせているようなおっさんになっていくんだけど・・まだやってんだね。
それより色々見てたら、

こんなさらに派手な表現で暴れてる版があったんですよ、
改訂してるのかな?よくわからない。
交響曲第4番を書いているあのブラームスはかつて自分の書いたこれをどう見ていたんだろう・・
もしかしていたたまれなくなって、表現を一段落としたの?
その前にどちらが新しい版なんだろう?昔見た楽譜はfffの方だった。
これ本人以外の手によるものなのかな?
人生というか生きてくためには自分にとって大切な心地よい時間というのが必要だ。
ほっといてもそういうのがどんどんやってくる人もいるのかもしれないけれど、私のところへは待っていても来てくれない。
自分で勝手に何かしてこれが心地よい時間なんだと思わないと・・
ちょっと気がゆるんだり弱気になると、楽しかったはずなのに、俺何やってるんだろ?みたいな虚しさが襲ってきたりする。
先程ちょっとそうなりかけた。
危ういんだよ心って。
ネガティブ側に転ぶと雪だるま式にい落ちて言ったりするから・・
このブラームスのソナタが頭の中で流れたらそのむなしさもどこかへ行っちゃってくれた。
ありがとう音楽。
頑張りましょう私。
また雨だっていうし、太陽が出ている間にどうしてもどこかへ行ってみたかった。
なんかこう心も湿っちゃって変になっちゃいそうだったので。
紅葉を見てみたかったけれど、人の集まる観光地は嫌なので峠の旧道を走ってみる。

色が付き始めていてなかなかいい感じだ。
でも写真にはうまく収まってくれない。
写真と言ってもスマホだけどね。

いつも思うけれど写真を撮ろうなんて思っていると、そればかりに意識が集中して写真を撮ってた記憶しか残らなかっったり、写真を撮ることに縛られた行動になってしまったりする・・のでダメだ。
と言って何にも取らずに見るだけだと後で寂しい。
いい天気の下、太陽の光を浴びて湿った心も柔らかくなった気がした。
空の青、木々の赤、黄、緑、土の茶・・色々見てなんとなく満足。
帰りに気に入ったカフェにまた寄ってみる。

おっさんなのに毎回ケーキ食ってるところがあれですか。
コーヒーもおいしかった。何度も通ってると俺でも名前と味がわかるようになるのかなぁ・・
このお店、迫力のある生け花みたいなのから始まってその辺にある小さな置物までなんか凄みを感じるんですよ。本物感というか・・
囲炉裏の炭にも火が入ってた。
ものすごく居心地がいいというだけでなくてなんか心もほぐされそうです。
休日はすごく混むみたいで近寄れない。いまいいお店はSNSですぐ有名になるんでしょう。
隣のお客さんは店主?といい感じで話をしていた。
俺は話しかけるなオーラが透けて見えている思うけど多分そういうのも簡単に見ぬいて一番居心地のいい形にしといてくれる気がする。静かですいてる日に行ける機会があったらまた行きたい。
若い若いブラームスが書いたピアノソナタ第3番
この曲も本当に彼らしく、運命に縛られ苦悩と戦う・・みたいなテーマで書かれていますが、ちょっとやりすぎというか頑張りすぎというか笑っちゃう・・笑っちゃいけないのか・・若いよねー。
まだ二十歳の、これから世に出て暴れてやるんだという若者の情熱があふれちゃってますよね。
40歳を超えて交響曲を書いてた頃のブラームスとは別人のロマン派の星みたいなブラームスですよ。
いろんな部分でもうピアノの世界にとどまっていられずオーケストラの音響を感じさせる。
左手がやたらに超低域でごうごう言っいて若獅子が自分の強さを見せつけようとしているところみたいだ・・
その第2楽章。
あふれるエネルギーをどこに持って行っていいかわからない暴発しそうな若者・・の、恋の場面ですね。

この小節線より1拍ずれてる感じの旋律が何かやってやろうって感じですよね。
右上にごちゃごちゃ書いてあるのはどこかの詩人による恋の詩らしいですよ。
若いねー。

後半恋の歌を情熱的に歌って行く場面。チャイコフスキーの交響曲第5番ややマーラーの交響曲6番のAndante楽章のしめで熱く歌われているあれとおんなじ世界だ・・聴いていてオケの音楽を感じさせられる。書いた本人もそんなことを感じて書いてると思う。
そのクライマックス、思いが抑えられずに叫んじゃってどうにもならないところ・・
楽譜の詩に抱き合うとあるからそういう事でしょう。
この場面が変ニ長調であることに注目しておきたい。
その後のブラームスという人は、こういうの人前で見せちゃいけないと自分に言い聞かせているようなおっさんになっていくんだけど・・まだやってんだね。
それより色々見てたら、

こんなさらに派手な表現で暴れてる版があったんですよ、
改訂してるのかな?よくわからない。
交響曲第4番を書いているあのブラームスはかつて自分の書いたこれをどう見ていたんだろう・・
もしかしていたたまれなくなって、表現を一段落としたの?
その前にどちらが新しい版なんだろう?昔見た楽譜はfffの方だった。
これ本人以外の手によるものなのかな?
人生というか生きてくためには自分にとって大切な心地よい時間というのが必要だ。
ほっといてもそういうのがどんどんやってくる人もいるのかもしれないけれど、私のところへは待っていても来てくれない。
自分で勝手に何かしてこれが心地よい時間なんだと思わないと・・
ちょっと気がゆるんだり弱気になると、楽しかったはずなのに、俺何やってるんだろ?みたいな虚しさが襲ってきたりする。
先程ちょっとそうなりかけた。
危ういんだよ心って。
ネガティブ側に転ぶと雪だるま式にい落ちて言ったりするから・・
このブラームスのソナタが頭の中で流れたらそのむなしさもどこかへ行っちゃってくれた。
ありがとう音楽。
頑張りましょう私。
ワックスのにおい

約35年前。この写っている中に多分私はいると思う。
変わらないようで変わった。
失われた20年なんていうけれど、家や建物がたくさん建っていくよね。
学校から普通の道を歩いて帰ればいいのに、なぜか田んぼのあぜ道や人のうちの裏庭を歩いて帰りましたよね。
田んぼで遊んでいて、農家のおばさんに家まで追いかけられたこともあった。
私が捕まったのでもう一人は助かってた・・
誰だか思い出せないけれどもう一人いたんだよなぁ・・・いつも一人だったんじゃないんだな。
記憶がねじ曲がっちゃってるかな。
そんな田んぼも牛のいた小屋も、小さな川にかかっていた石の橋も、みんなまっすぐな広い道路と宅地の中に消えてしまった。
ものすごく久しぶりにスッペの軽騎兵序曲を聴いてみました。
聴いていると床用ワックスのにおいが何となくしてくる・・・なんとなく手がべたつく感覚も・・・驚くというかちょっと感動した。
小学校に通いましたが6年間毎日、掃除の時間にこの曲流れていたんですね。
頭のどこかに焼き付いていて消えていないんだな。
掃除の時間にはほかにベルリオーズのハンガリー行進曲も流れていた。
給食の片づけを促するのにはバッハのブランデンブルク協奏協曲第3番・・後モーツアルトのホルン協奏曲も流れていたけど・・何の時間だったかは忘れた。
結構聴いていたと思う。細部まで耳に残っているんだから・・
ブランデンブルク協奏曲はカラヤン・ベルリンフィルの演奏だったのは間違いない。
たまたま買った盤を聴いたら聞きなれたものと寸分たがわない演奏が聞こえてきてびっくりした覚えがあります。
軽騎兵はだれの演奏だったかわからないけれど・・カラヤンだったのかなぁ・・
この曲、どんな曲よりもく知ってるのに30年間全く聞こうとしなかった。
だいたいスッペの名前は知ってるけど軽騎兵しか知らない・・何人なのかも意識してなかった。
オーストリア人でウィーンに住んでみたいな感じですか。

こんな人だって。
軍艦の艦長みたいですよね。
ふと思い出して聴きたくなった。CDを持っていたはず・・・
聞いてみたそれはなんだかこれじゃない的な演奏であった。
あの頃聴いていたあの演奏が頭に媚びるいついているせいもあると思う。
どの部分も昨日聞いたかのように細かく覚えていて懐かしいんだど、

このクラリネットソロのカデンツァみたいなのはなぜか覚えがないんだよなぁ・・・
こういうの聴いても意味が解らなかったのかな・・

最後のここも冒頭と同じ旋律で粘っていた記憶があるんだけどなぁ・・・
このスッペという人はオペレッタみたいな舞台用作品をたくさん手掛けたみたいだ。
たくさん手掛けたという事は生前はかなり人気の作曲家だったんだろう。
交響曲も書いたみたいだけど、聴いたことがない。
その死後ほとんどの作品は忘れ去られているみたいだ。
山本直純みたいなもんか・・全然違うか。
子供の頃、テレビに眼鏡かけた変なおっさんが出ていることには気づいていたけど山本直純なんて知るわけもなかった。
だけど記憶に残るあの曲もあの曲も彼の曲なんでしょう?
スッペも山本も、1曲でも100年以上残る曲があれば、芸術家として勝ち組かな・・
ちょっと何言ってるんだかわからない。
何か書こうと小学生の頃を振り返っても楽しい思い出というのはあんまり見つからない。
そこをどうにかしたいとも思わない。
クラシックどころか音楽が好きなことにも気づけいていなかったけれど、毎日耳にしていたいくつかの曲が心地よい記憶としてかえって来るのはやっぱり好きだったのかな。
何故だかちょっと嬉しい。
あの頃の俺に「そうそうかそか、お前音楽が好きなんだよ」とか言ってあげたい。
ずれてる
寒いですね・・と思ったら少し持ち直しましたか・・
最近整体に行ったりしているんですが行くとなにしろ「ずれてますね・・」と言われます。
直してもらってもまた行くとずれてますといわれるんだから私はずれているのが標準なんじゃないのか。

ショパンのノクターン第8番の最後に6度の和音が7連符で夢のように上昇していく部分があるんですが、

左手6つの上に右手7つの音がのるんですね。
曲の終わりでテンポを大きく落としていく場面なのと、ショパンの音楽なのでただ正確にやればいいというわけじゃない気もして・・・
誤解を恐れずに書きますとこれ

こんな感じで最初の音以外は両手で音が少しずれるはずで、同時に鳴ったらおかしいんですね。
7連符とか正確にやろうと思うと頭の中で「よよぎうえはらよよぎうえはら」とか唱えるんですよね・・いや知らないけど。
下は「しもきたざわしもきたざわ」同時にいえれば・・出来ねーよ。
ルービンシュタインの演奏は最後の2つくらいの音が同時に鳴っています。
これを
「間違いだ」と考えてもいいし
「むしろそうなちゃってるところが味わいだろ」みたいなことを言ったっていいし
いろんな解釈や考えや好み・・があっていいんだと思うんですよね。
で、適当にいろいろ聴いてみました。
ルービンシュタイン
これでこの曲を知って、こればっかり聴いていたから刷り込まれてしまいました。
体に染み渡っちゃってるのでこれを聴くと全身が喜ぶ。
ダニエル・バレンボイム
昔見たルービンシュタインの映画ですごく若いバレンボイムがルービンシュタインのレッスンを受けてたシーンが頭に焼き付いています。でも弟子というわけじゃないんですか・・
アルゲリッチ
情熱的というか、映像がないけれど全曲聴いていると弾いている姿が目に浮かんできますよねこの人の歌。
ポリーニ
やっぱり・・という感じもするけれど、ルービンシュタインを愛聴してきた自分にはポリーニの演奏が衝撃的でした。
ビルの谷間を駆け抜ける猛烈社員みたいなノクターンだな・・
クラウディオ・アラウ
音楽に目覚めたころ、なぜかは知らないけどこの人の盤が沢山発売されていて結構話題にも上っていたような気が・・ですぐ亡くなってしまったような気も・・
この演奏も結構好きだな。
あれですね、昔聞き比べた時は人による大きな違いに驚いたんだけど・・・
そんなでもないか・・
最後の音が両手同時という人が結構いますよね。こんなとこ正確だからいいってもんじゃないしね。
リズムもいろいろですが、7のとらえ方も人それぞれですね。
1が7つ並んだ7の人もいれば1が7分割されてる人・・
左手も、旋律的に音を聞かせる人と、もやーっと和音の雲みたいに聞かせる人・・
色々ですね。
そんなことより全曲聴いているとみんな自分の歌を持っていて強く歌っているんですよね。
ここが面白いだろ・・ってところを示してくれたり・・
その歌は人によってみんな違う。だけどなるほどそうかと思わせてくれる。
色々聴けると楽しいね。
私は色々と標準からずれているところがあると思います。
いろんな人からもいろいろと言われてきた。
腐ったり嘆いたりしたこともあります。
でもこの歳になるともう自分が愛おしいわ。
俺くらいは俺にそれでいいんだよと言ってあげないと。
誰に何を言われようと。
最近整体に行ったりしているんですが行くとなにしろ「ずれてますね・・」と言われます。
直してもらってもまた行くとずれてますといわれるんだから私はずれているのが標準なんじゃないのか。

ショパンのノクターン第8番の最後に6度の和音が7連符で夢のように上昇していく部分があるんですが、

左手6つの上に右手7つの音がのるんですね。
曲の終わりでテンポを大きく落としていく場面なのと、ショパンの音楽なのでただ正確にやればいいというわけじゃない気もして・・・
誤解を恐れずに書きますとこれ

こんな感じで最初の音以外は両手で音が少しずれるはずで、同時に鳴ったらおかしいんですね。
7連符とか正確にやろうと思うと頭の中で「よよぎうえはらよよぎうえはら」とか唱えるんですよね・・いや知らないけど。
下は「しもきたざわしもきたざわ」同時にいえれば・・出来ねーよ。
ルービンシュタインの演奏は最後の2つくらいの音が同時に鳴っています。
これを
「間違いだ」と考えてもいいし
「むしろそうなちゃってるところが味わいだろ」みたいなことを言ったっていいし
いろんな解釈や考えや好み・・があっていいんだと思うんですよね。
で、適当にいろいろ聴いてみました。
ルービンシュタイン
これでこの曲を知って、こればっかり聴いていたから刷り込まれてしまいました。
体に染み渡っちゃってるのでこれを聴くと全身が喜ぶ。
ダニエル・バレンボイム
昔見たルービンシュタインの映画ですごく若いバレンボイムがルービンシュタインのレッスンを受けてたシーンが頭に焼き付いています。でも弟子というわけじゃないんですか・・
アルゲリッチ
情熱的というか、映像がないけれど全曲聴いていると弾いている姿が目に浮かんできますよねこの人の歌。
ポリーニ
やっぱり・・という感じもするけれど、ルービンシュタインを愛聴してきた自分にはポリーニの演奏が衝撃的でした。
ビルの谷間を駆け抜ける猛烈社員みたいなノクターンだな・・
クラウディオ・アラウ
音楽に目覚めたころ、なぜかは知らないけどこの人の盤が沢山発売されていて結構話題にも上っていたような気が・・ですぐ亡くなってしまったような気も・・
この演奏も結構好きだな。
あれですね、昔聞き比べた時は人による大きな違いに驚いたんだけど・・・
そんなでもないか・・
最後の音が両手同時という人が結構いますよね。こんなとこ正確だからいいってもんじゃないしね。
リズムもいろいろですが、7のとらえ方も人それぞれですね。
1が7つ並んだ7の人もいれば1が7分割されてる人・・
左手も、旋律的に音を聞かせる人と、もやーっと和音の雲みたいに聞かせる人・・
色々ですね。
そんなことより全曲聴いているとみんな自分の歌を持っていて強く歌っているんですよね。
ここが面白いだろ・・ってところを示してくれたり・・
その歌は人によってみんな違う。だけどなるほどそうかと思わせてくれる。
色々聴けると楽しいね。
私は色々と標準からずれているところがあると思います。
いろんな人からもいろいろと言われてきた。
腐ったり嘆いたりしたこともあります。
でもこの歳になるともう自分が愛おしいわ。
俺くらいは俺にそれでいいんだよと言ってあげないと。
誰に何を言われようと。
遠くのあの場所
帰宅すると犬が散歩に出かけるところだった。
犬が一緒に行こうよ!と言ってくれるので一緒に散歩に出掛けた。

途中、遠くの山の上に明かりが見えます。かなり遠く、高い山の上。
私が子供のころから暗くなるとあそこにあの明かりが見えていた。
あそこにはなにがあるんだろう?そう思いながら20年くらいがたった時、双眼鏡であそこを見ると白く丸いものが見える。
どうしてもその丸が見てみたくなっていってみた。
そこにあったのは

こんなの・・
あんたか、光ってたのは・・子供のころから毎日見てたんだよ・・・
でも、それ以上の何物でもない。この電灯がよく来たね・・なんて言ってくれるわけもない。
一度しっかりその実態を知ったほうがいいとも思うけれど、よくわからないままふもとから
どこの明かりだろう?何を照らしているんだろう?なんて思いながら眺めているくらいのほうがいいのかもなと思ったりもする。
人も、音楽も、みんなそうかもしれない。
私が勝手にこうだと解釈しているそれでいいにしておいた方がいいかもしれない。
無駄に真実なんて欲しがらなくていいか・・
ヘンリク・グレツキというポーランドの作曲家の交響曲第3番『悲歌の交響曲』
17~8年前くらいに話題になりました。
イギリスでラジオ局が第2楽章を繰り返しかけたところ話題となり、CDがやたらに売れたらしい。
その話を聞いて自分もCDを買いに行きました。当時すでに街のレコード屋、少なくともクラシックコーナーは絶滅寸前となっていてショックを受けた記憶があります。でもなぜかこの曲(別な演奏者)は売ってた。
その騒ぎの件で印象に残っているのは、当時まだ健在だった作曲家に「この交響曲をどうして書こうと思ったのか教えてください」みたいなインタビュー。
その答えは
「昔のことなので、もう忘れました」
であった。
忘れるわけなんかないはずだ。
でもここで調子に乗ってペラペラしゃべるようなら芸術家として3流だと俺は思う。
お前が言うなという話でしょうけど・・ものをどう感じるかは私の勝手だから。
買って来たCDはたしか1度か2度聞いてふーんなんて思ったきりしまいっぱなしでした。
今日、18年ぶりくらいに聴いてみた。
そんな前に1度聞いただけなのに結構覚えているもんだな・・
第一楽章はシンプルなつくりだけど、この世の悲しみが全部集まってきて通過していくようにも聞こえる。
私は今少し悲しい気持ちでいるんだけど、でもこんなに悲しくはない。
この音楽に比べたら、私は少しも悲しくない。
私は大丈夫だ。
小学校の頃、山の上の農道を上っていくとあの光のあたりへ行けるらしいということを知ってどうしても行ってみたくなった。
ある日決意して弁当を持って山道を歩いて登ってみたのですが、どれだけ歩いても森が続くだけなのに負けてしまい途中で帰ってきてしまいまいました。あのカーブを曲がると頂上が・・・みえない・・とかやっていたのを微かに思い出します。
中学生になって、別なルートからだけど自転車であの山に登頂することができた。
どちらも別な友達といっしょに・・
書きながら思い出したけれど、俺にも友達がいたんだな・・
諦めたあの道は車に乗れるようになって行ってみました。
どれくらいまで頑張れていたのかが知りたかったけれどよくわからなかった。
頂上付近で行き止まりになるその場所は何もないけれど素晴らしい景色で気持ちよく、宿題が終わったみたいでちょっとうれしかった。
その後不法投棄対策か何かでその道は立ち入り禁止となりもう行くことはできない。
いけるうちに行っておいてよかった。
真実なんかいらないけど、知りたい気持ちも大事にもしたいか。
犬が一緒に行こうよ!と言ってくれるので一緒に散歩に出掛けた。

途中、遠くの山の上に明かりが見えます。かなり遠く、高い山の上。
私が子供のころから暗くなるとあそこにあの明かりが見えていた。
あそこにはなにがあるんだろう?そう思いながら20年くらいがたった時、双眼鏡であそこを見ると白く丸いものが見える。
どうしてもその丸が見てみたくなっていってみた。
そこにあったのは

こんなの・・
あんたか、光ってたのは・・子供のころから毎日見てたんだよ・・・
でも、それ以上の何物でもない。この電灯がよく来たね・・なんて言ってくれるわけもない。
一度しっかりその実態を知ったほうがいいとも思うけれど、よくわからないままふもとから
どこの明かりだろう?何を照らしているんだろう?なんて思いながら眺めているくらいのほうがいいのかもなと思ったりもする。
人も、音楽も、みんなそうかもしれない。
私が勝手にこうだと解釈しているそれでいいにしておいた方がいいかもしれない。
無駄に真実なんて欲しがらなくていいか・・
ヘンリク・グレツキというポーランドの作曲家の交響曲第3番『悲歌の交響曲』
17~8年前くらいに話題になりました。
イギリスでラジオ局が第2楽章を繰り返しかけたところ話題となり、CDがやたらに売れたらしい。
その話を聞いて自分もCDを買いに行きました。当時すでに街のレコード屋、少なくともクラシックコーナーは絶滅寸前となっていてショックを受けた記憶があります。でもなぜかこの曲(別な演奏者)は売ってた。
その騒ぎの件で印象に残っているのは、当時まだ健在だった作曲家に「この交響曲をどうして書こうと思ったのか教えてください」みたいなインタビュー。
その答えは
「昔のことなので、もう忘れました」
であった。
忘れるわけなんかないはずだ。
でもここで調子に乗ってペラペラしゃべるようなら芸術家として3流だと俺は思う。
お前が言うなという話でしょうけど・・ものをどう感じるかは私の勝手だから。
買って来たCDはたしか1度か2度聞いてふーんなんて思ったきりしまいっぱなしでした。
今日、18年ぶりくらいに聴いてみた。
そんな前に1度聞いただけなのに結構覚えているもんだな・・
第一楽章はシンプルなつくりだけど、この世の悲しみが全部集まってきて通過していくようにも聞こえる。
私は今少し悲しい気持ちでいるんだけど、でもこんなに悲しくはない。
この音楽に比べたら、私は少しも悲しくない。
私は大丈夫だ。
小学校の頃、山の上の農道を上っていくとあの光のあたりへ行けるらしいということを知ってどうしても行ってみたくなった。
ある日決意して弁当を持って山道を歩いて登ってみたのですが、どれだけ歩いても森が続くだけなのに負けてしまい途中で帰ってきてしまいまいました。あのカーブを曲がると頂上が・・・みえない・・とかやっていたのを微かに思い出します。
中学生になって、別なルートからだけど自転車であの山に登頂することができた。
どちらも別な友達といっしょに・・
書きながら思い出したけれど、俺にも友達がいたんだな・・
諦めたあの道は車に乗れるようになって行ってみました。
どれくらいまで頑張れていたのかが知りたかったけれどよくわからなかった。
頂上付近で行き止まりになるその場所は何もないけれど素晴らしい景色で気持ちよく、宿題が終わったみたいでちょっとうれしかった。
その後不法投棄対策か何かでその道は立ち入り禁止となりもう行くことはできない。
いけるうちに行っておいてよかった。
真実なんかいらないけど、知りたい気持ちも大事にもしたいか。
立体化
何だかずっと天気が悪いですね。
いろんな方のブログで紅葉がきれいな写真を見ているといいなぁと思います。
自分もどこか出かけてみたい。
人のいっぱいいるようなところじゃなくて、何だかどうでもいいようなところに美しい景色を発見したい。
空気も感じる物がありますよね・・・その場にずっといいたくなるような空気・・・微かに感じる何だかわからないけど居心地のいいにおい・・
また、週末ダメかな・・
先日遠くのラーメン屋に行った後、近くのホームセンターとスーパーが一緒になったようなところへ寄りました。
嫁さんはいつもと違うところで買い物すると息抜きになるんでしょう。
おっさんはすることもないので隣の電気屋に入ってみる。
前にも来たことがあるけれど、パソコンの売り場が縮小していたのが印象的だった。
皆スマホでよくなっちゃったのかな?
高いテレビとか全く興味もないんだけれどなんとなく眺める。
中学校の時に音楽とオーディオには目覚めたけれど、映像系には無関心なままでした・・
でっかい4Kというテレビに専用のデモンストレーション用映像が・・・
あー、すげーなー。
2次元画面だから実際は二次元なんだけど、かなり奥行き感を感じる疑似3Dみたいな映像にちょっとびっくりしました・・
今テレビはあんなところまで行ってるのね・・
一時期どこにも置いてあった眼鏡をかけて3Dみたいなのはなかった。
あれはなんというか昔はやったらしい4chステレオみたいな感じで消えてくんじゃないのかなぁ・・
最近もうひとつびっくりしたのがグーグルマップ。都市部のものは何年か前からそうなっていたみたいだけど・・
うちの近所の航空写真をどんどん拡大していくと

こんな3D的な、自分が空を飛んだような光景を見ることができます。
静止画像じゃ伝わらないと思いますが、これどんな方向角度に移動してもそれに合わせて映像も動くというか・・向こうに回ればあの立木を裏から見ることができます・・
グーグルアースみたいに地形情報と組み合わせて山や谷を表現というのはあったけど、例えば橋なんか谷にベタっと貼りついて落橋したかのように描かれちゃってましたよね・・
橋は川の上に水平にかかっているし、電柱もちゃんと直立している。
大袈裟に言うと、自由に空を飛んでみたい・・という夢がかなったみたいだ。

こんな鉄骨を組み合わせた送電線鉄塔がちゃんと建っている。
その周りの小川の深さ、低木の高さ・・どうでもいいような雑草の高さまでとらえられている。
3方向からとった映像の差分を解析して・・みたいなのでしょ?
音響のステレオと似ている気もする。
自動で処理するらしいし、、きちっと情報が捕えられれば道端のごみだろうが放置自転車だろうが、立体表示できるんでしょう。
人が全く写っていないけれど、削除も自動化しているみたいだ。
すごいね、削除する人も写る人も不要なんだから、もう世の中人自体がいらないよね。
送電線鉄塔の魅力に取りつかれ、その姿を愛でたり分析して喜ぶ送電線鉄塔マニアという人種がいます。
その手の人はわかると思いますこれドナウですね。

線路をまたぐ架線とビーム、クレーンなんかもちゃんと建ってる。
すごいところは張られた電線もちゃんと浮いて表示されて・・・・
だから何だという話ですが、面白くて一日中見てた・・
俺のうちははどうか!?と思ったら200mくらい先から非対応地域に入っていてペッチャンコだった。
これ見始めると止まらないなぁ・・・
もう革新的な技術革新なんかないんじゃないかと思ったけど、いろいろやってるんだね。
でオーディオは?・・・
まぁ、いいか。
私は現状の2chステレオ再生で十分満足。
楽しいです。
ワーグナーの楽劇ラインの黄金の最後、
ヴォータンをはじめ神々がヴァルハラ上に入ってへらへら笑っていると
ラインの乙女が「指輪を返して!」かなんか言っているのが聴こえてくるところ・・
3人のラインの乙女とハープが舞台裏で歌っています。
ショルティ、ウィーンフィルのを持っていてたまに聴きますが、手前のオーケストラとは全然違う奥の方で歌っているように聞こえます。
3次元的奥行き表現て1950年代から追及されていたんですね・・

ラインの乙女の声がどこからか聞こえてき始めるところ。
ドイツ語が読めないけど、乙女のところには見えないくらい深く?ハープには3人のラインの乙女の後ろで・・と書いてあるような気がする。
虹の橋を渡って入る神々の城・・・この音楽も変ニ長調だ。
変ニ長調の世界は雲の上にあるんだと思う。
この後オケの壮大なラスト。
ここはディレクターが仕掛けて団員にお酒を一杯ひっかけさせた後に録音したんだって。
でっかいスケールで終わっていくでしょう・・・
面白いよねそういうの。
私は音楽には強く惹かれるんですがオペラそのものにはあまり興味がわきません。
だからテレビとかプロジェクターとかにも凝らなかった。
でも指輪はどうしても見たかったのでそれだけのためにプレーヤーを買ったりしました。
見終わると満足してもう見ないしプレーヤーもどっかいっちゃった。
本当は音楽を深く聞こうと思ったら文学とか演劇とか美術とかいろんな要素にも興味をもって掘り下げた方がなんかこう立体化していいのかもしれない。
でも私は音楽だけ・・薄っぺらい人間です。
私はジークフリートやブリュンヒルデよりラインの乙女にからかわれて馬鹿にされた揚句に怒って愛を捨てて呪いをかけるとか言い出すアルベリヒに心惹かれる。
いろんな方のブログで紅葉がきれいな写真を見ているといいなぁと思います。
自分もどこか出かけてみたい。
人のいっぱいいるようなところじゃなくて、何だかどうでもいいようなところに美しい景色を発見したい。
空気も感じる物がありますよね・・・その場にずっといいたくなるような空気・・・微かに感じる何だかわからないけど居心地のいいにおい・・
また、週末ダメかな・・
先日遠くのラーメン屋に行った後、近くのホームセンターとスーパーが一緒になったようなところへ寄りました。
嫁さんはいつもと違うところで買い物すると息抜きになるんでしょう。
おっさんはすることもないので隣の電気屋に入ってみる。
前にも来たことがあるけれど、パソコンの売り場が縮小していたのが印象的だった。
皆スマホでよくなっちゃったのかな?
高いテレビとか全く興味もないんだけれどなんとなく眺める。
中学校の時に音楽とオーディオには目覚めたけれど、映像系には無関心なままでした・・
でっかい4Kというテレビに専用のデモンストレーション用映像が・・・
あー、すげーなー。
2次元画面だから実際は二次元なんだけど、かなり奥行き感を感じる疑似3Dみたいな映像にちょっとびっくりしました・・
今テレビはあんなところまで行ってるのね・・
一時期どこにも置いてあった眼鏡をかけて3Dみたいなのはなかった。
あれはなんというか昔はやったらしい4chステレオみたいな感じで消えてくんじゃないのかなぁ・・
最近もうひとつびっくりしたのがグーグルマップ。都市部のものは何年か前からそうなっていたみたいだけど・・
うちの近所の航空写真をどんどん拡大していくと

こんな3D的な、自分が空を飛んだような光景を見ることができます。
静止画像じゃ伝わらないと思いますが、これどんな方向角度に移動してもそれに合わせて映像も動くというか・・向こうに回ればあの立木を裏から見ることができます・・
グーグルアースみたいに地形情報と組み合わせて山や谷を表現というのはあったけど、例えば橋なんか谷にベタっと貼りついて落橋したかのように描かれちゃってましたよね・・
橋は川の上に水平にかかっているし、電柱もちゃんと直立している。
大袈裟に言うと、自由に空を飛んでみたい・・という夢がかなったみたいだ。

こんな鉄骨を組み合わせた送電線鉄塔がちゃんと建っている。
その周りの小川の深さ、低木の高さ・・どうでもいいような雑草の高さまでとらえられている。
3方向からとった映像の差分を解析して・・みたいなのでしょ?
音響のステレオと似ている気もする。
自動で処理するらしいし、、きちっと情報が捕えられれば道端のごみだろうが放置自転車だろうが、立体表示できるんでしょう。
人が全く写っていないけれど、削除も自動化しているみたいだ。
すごいね、削除する人も写る人も不要なんだから、もう世の中人自体がいらないよね。
送電線鉄塔の魅力に取りつかれ、その姿を愛でたり分析して喜ぶ送電線鉄塔マニアという人種がいます。
その手の人はわかると思いますこれドナウですね。

線路をまたぐ架線とビーム、クレーンなんかもちゃんと建ってる。
すごいところは張られた電線もちゃんと浮いて表示されて・・・・
だから何だという話ですが、面白くて一日中見てた・・
俺のうちははどうか!?と思ったら200mくらい先から非対応地域に入っていてペッチャンコだった。
これ見始めると止まらないなぁ・・・
もう革新的な技術革新なんかないんじゃないかと思ったけど、いろいろやってるんだね。
でオーディオは?・・・
まぁ、いいか。
私は現状の2chステレオ再生で十分満足。
楽しいです。
ワーグナーの楽劇ラインの黄金の最後、
ヴォータンをはじめ神々がヴァルハラ上に入ってへらへら笑っていると
ラインの乙女が「指輪を返して!」かなんか言っているのが聴こえてくるところ・・
3人のラインの乙女とハープが舞台裏で歌っています。
ショルティ、ウィーンフィルのを持っていてたまに聴きますが、手前のオーケストラとは全然違う奥の方で歌っているように聞こえます。
3次元的奥行き表現て1950年代から追及されていたんですね・・

ラインの乙女の声がどこからか聞こえてき始めるところ。
ドイツ語が読めないけど、乙女のところには見えないくらい深く?ハープには3人のラインの乙女の後ろで・・と書いてあるような気がする。
虹の橋を渡って入る神々の城・・・この音楽も変ニ長調だ。
変ニ長調の世界は雲の上にあるんだと思う。
この後オケの壮大なラスト。
ここはディレクターが仕掛けて団員にお酒を一杯ひっかけさせた後に録音したんだって。
でっかいスケールで終わっていくでしょう・・・
面白いよねそういうの。
私は音楽には強く惹かれるんですがオペラそのものにはあまり興味がわきません。
だからテレビとかプロジェクターとかにも凝らなかった。
でも指輪はどうしても見たかったのでそれだけのためにプレーヤーを買ったりしました。
見終わると満足してもう見ないしプレーヤーもどっかいっちゃった。
本当は音楽を深く聞こうと思ったら文学とか演劇とか美術とかいろんな要素にも興味をもって掘り下げた方がなんかこう立体化していいのかもしれない。
でも私は音楽だけ・・薄っぺらい人間です。
私はジークフリートやブリュンヒルデよりラインの乙女にからかわれて馬鹿にされた揚句に怒って愛を捨てて呪いをかけるとか言い出すアルベリヒに心惹かれる。
5とか7

なんとなく7連符とか考えていて・・
マーラーの交響曲第3番第4楽章です。
構想時の副題は「夜が私に語ること」
ニーチェのツァラトゥストラはかく語りから「ツァラトゥストラの真夜中の歌」が歌われますが、何しろ夜です。
曲中のいろんな動機が第1楽章で提示されていて強い関連を感じさせますが・・
ホルンの2重奏が歌って・・ノクターンでもありますね。
実演を聴きに行ったときこのホルンの2重奏が月の光に見えた。
ほるの旋律に月に光が当たっているように聴こえたんです・・よかったあの時。
低弦のDとAの伸ばしは闇を描いています・・ニ長調だから・・でしょうけど、自然というか宇宙の真理みたいなことを言ってるんだと思うんです。巨人の冒頭の霧もAの伸ばしですね。
チューニングもAですが、Aは自然の象徴かなんかなんだろうと思います・・私は絶対音感もなく屁理屈で聴くだけですが、感じる人は感じるんですか?自然感みたいなの。高いだ低いだってそういう話じゃなくて・・

フラジオレットの弦とハープがスーッ!と走る光を描いて・・・マーラーマジックみたいになっていますが、よく見るとピッコロが変に低い音域で吹いていてまた何か企んでる感じがいいですよね。
そしてこの7連符・・

間奏を挟んだここは7連符と5連符がいっぱい・・
こういうの普通の感覚だと6連符とか8分音符だとかになると思うんですが、7とか5とか割り切れない数字をここに充てているのは明らかに狙ってやっていますよね。
なんでしょうかこう・・・人の手の及ばない・・自然の摂理・・みたいなことかなぁ・・
実際ここは聴いていてああ、7連符だなとか5連符7連符がさっこうしているんだななんて感じることはできません。
でもなにかウニョウニョウニョと変な波が発生しているのは感じる・・とても面白い部分だと思います。
よく見るといろんな楽器が歌う主要旋律も7や5に支配されています。
天才的聞き取り力を持った特殊な人以外は気付かない様な仕掛けを、楽譜の中に込めるのはバッハとか昔からありますよね。
こういうの書いてて楽しいでしょうね。
ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」は読まなくちゃいけない気がして昔買ってきましたが2ページ目くらいでどっかいっちゃってそれっきりです。
リヒャルト・シュトラウスの超絶有名曲、交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」そのおしまいのほうには鐘が12回ガンガン鳴らされる部分があるんです。マーラーのこの曲はあの鐘の鳴るところと同じ場面なんですよね。
だけどリヒャルトのそこはものすごい大騒ぎなんですよ。
この曲の世界に浸っているとき、リヒャルトのあれを思い出すと笑いそうになる・・
あちらは最も遠いロ長調(人間)とハ長調(自然)が同時進行して、絶対に相いれないものだみたいなことを言ってるらしくまた面白いことになっちゃているわけですが・・
こちらのこの5と7も何だか深い意味があるんじゃないかなぁ・・
リヒャルトと違って「おお人よ、よく聞け!」という言葉を受ける人間が音楽の中に描かれていない気がしますが、呼びかけられている人というのはほかならぬ聴き手自身なんじゃないかなぁ・・
聞け!って言ってますから聞かなきゃならないですよ我々。
そういえばこの曲もニ長調なのにAで終わって永久に完全終始しないんですよね。
この永遠というのも意味があるんでしょう?ニーチェ的に・・ちゃんと読んでいなくて何だか知らないけど。

ビオラがゆっくり振動し始めてトリルに移行していく・・
イングリッシュホルンに被って、またピッコロが低域で・・
音だけほしいならこれはフルートでやればいいんだしこれも何か狙っているネタですよね・・

旋律も7に支配されてる。
詩の意味が音楽にどう反映されているかを知るとまた面白くなりこの曲がいとおしくなってきます。
またそのうち書いて見ようと思っています。
そうだ・・
死の床にあるマーラーへ宛てた、リヒャルト・シュトラウスからの手紙が残っているみたいです。
リヒャルトはマーラーがあと数日の命だと知っていたようだ。
そこには「今、君の第3交響曲を演奏すべく準備を進めているところだよ。もちろん僕が指揮をするつもりだが、君が望むなら君のこの素晴らしい作品を君自身の指揮でも聴くことができるととてもうれしいのだけど・・きみの手を煩わせないよう、僕がしっかり稽古をつけておくから・・」ということが書かれているそうです。
妻によるとそれを読んだマーラーはとても喜んだという・・
(;_;)
雨音とピアノ

起きたら雨の音。
台風が来るというから早めに投票に行ってきた。
窓から見える雨の向こうの柿の樹。
柿泥棒を目撃したこともあります。
ショパンのハ短調のポロネーズを聴く。
なんとなく嵐の中で聴く音楽は・・と考えたら頭の中でこれが鳴ったので・・
ずっと左手がオクターブで厳しいことを言うんだけど、途中一瞬変ホ長調に降りるんだよね。
そこがあるからこの人ほんとはあったかい人なんじゃない見たいな・・

自筆譜があった。
始め、ほぼ同じことを繰り返すのでリピートかと思っていた・・・ら違うんだね。
最初はそっと歌い、2度目は f なんだ・・・ずっとちゃんと聞けてなかった・・
こういうのこうやって略記するんだね。
しかしこの曲もなんだか救いのない感じが悲しいなぁ・・
ピアオソロの録音も盤によっていろんなコンセプトを感じます。
ステージがあって、その中央にピアノ・・というのもあると思うけれど、今日聴いたルービンシュタインの録音はスピーカーの後ろに蓋を空けたグランドピアノが横たわっているという感じ。
ルービンシュタインは時々鍵盤に爪が当たるのか、曲によっては左奥から爪のカチャカチャいう音が聞こえることがります。
そこにルービンシュタインがいて、今部屋の中でピアノを弾いてくれていると感じる・・
オーケストラ音楽を聴くときにはその世界の中に入り込もうとするので、一切の外界ノイズが音楽をじゃまする敵となります。
雨の音、鳥の鳴き声、飛行機の音・・この世界の中でそういうものは聞こえてはいけないという事になっていて、聞こえれば世界をぶち壊されてしらける・・
でも、このピアノを聴いているとき、ふっと雨音が聞こえたけれど気にならなかった。
ピアノは今、目の前にありそこで音楽を聴かせてくれている。雨が降る中この部屋に来てくれて・・
だから部屋の外で雨音がすることに何の矛盾もない。
ピアノって元々こういう面も持った楽器なんだよね。