落ち葉

紅葉ってなんで人を魅了するんでしょうね。
紅葉に限らず、秋もいい季節ですよね。
一方、音楽だと人生の終焉を悟ったような・・・そんなところに秋を感じることがあります・・
マーラーの交響曲「大地の歌」
第2楽章 秋に寂しき者
またしてもワルターですが、一連のステレオ録音の中で何曲かはコロンビア響じゃなくてニューヨークフィルなんですよね。
この曲もそうです。彼らでコンサートをやった後に録ったんだっけ?
・・・別なソリストとカーネギーホールでコンサートを行っているのとほぼ同時に録ったみたいです・・レコード会社のとの契約など録音のために別なソリストを探していたみたいです・・・
余計な話ですが、最初にチェロが出てくる直前に走り去っていく自動車のエンジン音が入っています。
Youtubeとかだと聴こえないかもしれません。1958年・・この車の主は自分の運転する車の音が永久にとらえられていることを知っていたのかな?知るわけないか。
このチェロ、とても重要だと思うんです。

初めて聴いたとき、内容も何も知らないけれど秋の音楽だと思った。
このヴァイオリンは木の葉が舞い落ちるさまに聞こえてしょうがないですよね・・
でも、歌詞は「湖水も草木も霧に覆われ・・」という日の光のささない冷たく静まった光景を歌い、赤い木の葉が落ちる世界はそこにはありません。
ではこれは何なのか・・
歌は目の前にある景色を語った後、
私の心はもう疲れた
私の灯も消えてしまう
安らぐ場所へ行かせてほしい
私には癒しが必要なのです
私は一人で泣いている
愛の太陽はもう私の心を癒してくれないの?
みたいなことを歌います。実際はもうちょと言葉があります。
そのまま受け取ってもいいですが・・マーラーの曲ですもん、これは人とのかかわりの中で傷つき疲れ果て希望を失ったものが死に安らぎを求めている・・ということなんじゃないかと思うんです。
この交響曲全体を貫くテーマも色々あるけどみんな死んでいくし、私も死ぬんだ・・みたいなものを感じるんですね。
突然「私の心はもう疲れた・・」とか言いだすところ

チェロのピッチカートが湖面に落ち、ビオラ→チェロと波紋が広がってゆく・・・
これは次の交響曲第9番でも悟りを開いて後光が差したような場面に出てきます。
これは、目の前にある情景ではなく、心の中に広がる波だと思うんです。

交響曲第9番第1楽章のコーダ
私はここを自分の人生を受け入れた場面だと思っています。
余計な話だし何回も言ってしつこいけどマーラーの9番を馬鹿の一つ覚え的に死におびえる音楽だとか葬送だとかいう解釈には賛成できません。
大方の解説にいまもそんなことが書いてあったり、どこのどんな偉い人がそう言おうとそれに私の考えを同調させる必要はないと思う。。
まぁいいかそれは。
「おお愛の太陽よ」叫ぶと音楽も美しく情熱的に叫びます。
癒しの音型が鳴り響きますが・・
もう私の涙を乾かしてはくれないの?みたいなところ

疲れた・・と同じ。
心の中に、不安・絶望の波が立っている・・・
それであのたくさんの木の葉が舞い落ちる情景が見えているのは何かと考えると、それは目の前に見える景色じゃなくてこの人の命の葉がどんどん落ちて行っているところ・・・最後の1枚がなくなったとき・・みたいな・・
というものじゃないかなぁ・・・
そう思うと曲尾の

この枯葉のおとがフッ・・と無くなり、止まってしまうところ・・何も知らなくてもはっとする部分だけど・・
ここが強く訴えてくる。
誰もそう思わないかもしれないし、
考えすぎなのかもしれませんが、こんなこと考えてると楽しいです。