正しく読み取れているか

恥ずかしいですが、今日は朝から憂鬱。
心の中には同時進行的にあったいろんな事実がワイヤーみたいなものに括り付けられて保存されている。
今そのうちの一つだけがなぜか知らないが浮き上がってきて光輝き強烈に主張している。
さらにその光は新たな架空の札を付けた線を勝手に作ろうとしてもいる。
それは私には辛く苦しい内容でしかない。
奥に沈んでしまっている別な線を引っ張り上げて聴いてみれば今光っているのを否定する全く別な情報がきちんとした事実として浮かび上がってくる。
それを見れば今光っているのが私の本心ではないこともわかる。
なのに、それらは手を放すとみんな下のほうへ落ちていき暗闇に沈む。
変に光っている奴はますます光ってくる。
馬鹿のポエムみたいですが、今こんな感じ。
マンホールを開けると地中送電線路みたいなものがあってそれが私の心。
一本だけ外に出てきちゃって派手に光ってる。
まだ拾えていない事実があるはず、それを拾えばこの日勝ってるのが正しいとわかる・・
みたいなことを光は言い出した。
そんなこと今更できるか。
ふたを閉めてしまいたいのに、今日は朝から蓋が見つからない。
バッハのトッカータとフーガドリア調BWV538という曲が大好きなわけですが、この重くて大きなフーガ、途中から主題が単純に出てくるんじゃなくて別な声部とカノンをやってたりするんですね。

ここは第1声部をペダルが追ってる・・
ここはヘ長調に転調して明るく力強く動き出す感動的な場面ですよね・・

ここは第2声部を第3声部が追ってる・・

ここはペダルが先で第2声部が追う・・

最後の主題も・・第1をペダルが・・
始めのヘ長調で出てくるあたりはわかりやすいけれど、その後のものはボーっと聴いていると結構聞き逃したりする。
聴き取ろうとすれば聞こえるし、全体を弾いて眺めれば埋没したりもする。
どちらが正解かというと両方正解でいいと思う。
全部を正確に聴きとれていなくて離れた時に感じた印象、それもこの曲の姿なんだと思います。
時間がたつと忘れていくこともあるけれど、時間がたつと妄想が巨大化していく場合もある。
今ちょっとうまく処理できてないなぁ・・
私の近くに昔から心を病み極端な被害妄想世界の中に住んで常軌を逸した言動を見せる人がいる。
その最大の特徴というか問題点は自分はいたって正常であり、少しもおかしくないと信じて疑わないことにあると思う。
私も自分は正常であると信じて疑わない。普段は・・
最近時々自分も同じかもしれないと思う事がある。
10代の頃に見た地獄はHSPでは説明できない。
この数か月、私が私に起きたと思っていることは、もしかしたら全然事実と違うのかもしれない。
大丈夫。
すこし落ち着いてきた。
いつもなら削除する内容だけど、今日はこのままにさせてください。
明日になれば、また違う考えも浮かぶかもしれない。
大丈夫、バッハのフーガはちゃんと聞きとれているから。
最終和音が明るく輝いたとき、救われた気がする。
しった顔でピカデリー終止なんていちいち言わなくていいから。
私の人生がこのままグダグダで終わったとしても、素晴らしい音楽をいくつか知ることができたんだからこの世に出てきた甲斐はあったと思う。