名前
昼飯を好きに食べられるチャンスがやってきたので

鰻を食ってやった。
昔からあるような鰻屋さんは高くて行けなくなってしまいましたが、ここは低価格路線で勝負している店。数年前からの価格高騰以前は確か600円台でうな丼が食えていた気がします。
安くてもちゃんと炭火で焼いていたりして牛丼チェーンが時々やるようなのとは一線を画している。
鰻の値段が急上昇してしまった時、コンセプト的に継続難しいかなと思いましたが値上げをしてもお客さんちゃんとついてきたみたいだ。
中国製なんだろうけどとりあえずおいしい。俺にそんな高尚なのはいらないし。
いつもなら大盛にするところだけど医者に怒られるので普通にすると行く前から固く決心して挑む。
その分切り干し大根がついてきた。
その医者のいる病院で、肝臓だったか食べるとリスクのある食材リストみたいなポスターの筆頭に鰻があったことは今は忘れたことにして・・・
そして私の名前はunagi・・・はどうでもいいか。
私の父親は遠隔地の出身で苗字はこのあたりではほぼ100%全く違う別な読み方をされます。
子供のころからいちいち正さずその名に返事をすることに慣れている。
そういえば10月頃になってもまだ間違った読みで呼ぶ担任の先生がいた。
私が目立たなく覚えにくいにしてもさすがにひどいと思ったけれど、文句を言うこともできず無視をして怒られた。
子供の頃、親に自分の名前の由来を聞いたところその答えは「お寺さんでもらった」だった。
今ならその寺っていうのが何なのかも察しがつくけれどそれはいいとして、
子供なりに親の思いみたいなものを聞きたかったのに何回聞いても「もらってきた・・・」
親のせいだなんていう気はありませんが今でも自分の名前にリアリティがない。
便宜上書いたり答えたりはするけどそれが自分だという意識がかなり希薄で他人事みたいだ。
私の自己肯定力が異常に足りないのは名前のせいだなんて思わないけれど、名前にリアリティがないなんて言ってるのは自己肯定力が足りないあかしだとは思う。
ブログを始めるときブログ名を考えると馬鹿のたわ事とか犬の糞みたいな否定形の名前ばかりが出てくることに気付いた。
これはまずいと思いせめてブログ名だけでも自分を肯定しましょうと思いつけたのがそれでいいの。
unagiの由来は25年くらい前のパソコン通信にまで遡るんですが20年くらい前のインターネット黎明期にもunagiの名前で出ていました。
楽しかったのはいいけれどリアル私よりもネット上のunagiさんの方が勝ってしまった。
私はunagiに嫉妬し始める・・結構危ないと思う。
幸いその時はある出来事でunagiがいなくなりました。
今また私の中にunagiさんが独立し始めてる・・好意的なコメントをいただくとほめられたのは私じゃなくてunagiさんだと思いながら傍から眺める感じ・・
だから最近変な事ばっかり書いてるのかなぁ・・もう若くないのに気持ち悪いなぁ・・・
ラヴェルのハイドンの名によるメヌエット
音楽雑誌がハイドンの没後100周年号の企画として複数の作曲家に作曲の依頼したというもの。
HAYDNのアルファベットを音名に置き換えて・・。
バッハとかショスタコーヴィッチがやったのと違いちょっとこじつけ的なルールに基づいているので聞いても特に何も感じない。
それよりいい曲だねとか思ってればいいんだよこんなの。

あえて設定した制約に縛られて創作・・と言うところが面白い訳ですけどね。
恥ずかしいけれど構わず書くと私の感じている拍子は楽譜とずれている。
雑誌社の呼びかけに何人かが答えているけれどサンサーンスはルールが理解できないからと言ってやらなかったとWikipediaにあった。
超絶インテリなサンサーンスにあんなものが理解できないはずはない。
プライドも高いおっさんだから他の作曲家と比べられるのが嫌だったのかなと思ってみたり。
それより驚くのはサンサーンスがラヴェルと同時代人だという事実。わかってはいるんだけど・・彼の作風は時代と50年ずれて聞こえる。
昔読んだマニュエル・ロザンタールの本にこんな話がありました。
ラヴェルは弟子の作品が演奏されるイベントを見に行ったが警備員に止められた・・
おっさんここから先は招待者だけだよ・・みたいなのかな?
なにを言ってるんだ!俺はモーリス・ラヴェルだぞ!!とか言って叫んでいたけど
ダメだと言って入れてもらえなかったらしい。
世界をぶっ飛ばすようなスーパー名前も、そこに価値を感じない人の前では何の意味もないんだよね。
名前にはリアリティが感じられないけれど、私の中にリアルな私がいるのも間違いない。

同じ日、別な場所。
ペンキ塗りたて?とか思いながらドアの取っ手じゃないところを手で押してベチャ・・・
これが私。
まさに私。
どこ行ってもうまくいかず逃げちゃってる糞みたいなやつも私。
愛おしい私。

鰻を食ってやった。
昔からあるような鰻屋さんは高くて行けなくなってしまいましたが、ここは低価格路線で勝負している店。数年前からの価格高騰以前は確か600円台でうな丼が食えていた気がします。
安くてもちゃんと炭火で焼いていたりして牛丼チェーンが時々やるようなのとは一線を画している。
鰻の値段が急上昇してしまった時、コンセプト的に継続難しいかなと思いましたが値上げをしてもお客さんちゃんとついてきたみたいだ。
中国製なんだろうけどとりあえずおいしい。俺にそんな高尚なのはいらないし。
いつもなら大盛にするところだけど医者に怒られるので普通にすると行く前から固く決心して挑む。
その分切り干し大根がついてきた。
その医者のいる病院で、肝臓だったか食べるとリスクのある食材リストみたいなポスターの筆頭に鰻があったことは今は忘れたことにして・・・
そして私の名前はunagi・・・はどうでもいいか。
私の父親は遠隔地の出身で苗字はこのあたりではほぼ100%全く違う別な読み方をされます。
子供のころからいちいち正さずその名に返事をすることに慣れている。
そういえば10月頃になってもまだ間違った読みで呼ぶ担任の先生がいた。
私が目立たなく覚えにくいにしてもさすがにひどいと思ったけれど、文句を言うこともできず無視をして怒られた。
子供の頃、親に自分の名前の由来を聞いたところその答えは「お寺さんでもらった」だった。
今ならその寺っていうのが何なのかも察しがつくけれどそれはいいとして、
子供なりに親の思いみたいなものを聞きたかったのに何回聞いても「もらってきた・・・」
親のせいだなんていう気はありませんが今でも自分の名前にリアリティがない。
便宜上書いたり答えたりはするけどそれが自分だという意識がかなり希薄で他人事みたいだ。
私の自己肯定力が異常に足りないのは名前のせいだなんて思わないけれど、名前にリアリティがないなんて言ってるのは自己肯定力が足りないあかしだとは思う。
ブログを始めるときブログ名を考えると馬鹿のたわ事とか犬の糞みたいな否定形の名前ばかりが出てくることに気付いた。
これはまずいと思いせめてブログ名だけでも自分を肯定しましょうと思いつけたのがそれでいいの。
unagiの由来は25年くらい前のパソコン通信にまで遡るんですが20年くらい前のインターネット黎明期にもunagiの名前で出ていました。
楽しかったのはいいけれどリアル私よりもネット上のunagiさんの方が勝ってしまった。
私はunagiに嫉妬し始める・・結構危ないと思う。
幸いその時はある出来事でunagiがいなくなりました。
今また私の中にunagiさんが独立し始めてる・・好意的なコメントをいただくとほめられたのは私じゃなくてunagiさんだと思いながら傍から眺める感じ・・
だから最近変な事ばっかり書いてるのかなぁ・・もう若くないのに気持ち悪いなぁ・・・
ラヴェルのハイドンの名によるメヌエット
音楽雑誌がハイドンの没後100周年号の企画として複数の作曲家に作曲の依頼したというもの。
HAYDNのアルファベットを音名に置き換えて・・。
バッハとかショスタコーヴィッチがやったのと違いちょっとこじつけ的なルールに基づいているので聞いても特に何も感じない。
それよりいい曲だねとか思ってればいいんだよこんなの。

あえて設定した制約に縛られて創作・・と言うところが面白い訳ですけどね。
恥ずかしいけれど構わず書くと私の感じている拍子は楽譜とずれている。
雑誌社の呼びかけに何人かが答えているけれどサンサーンスはルールが理解できないからと言ってやらなかったとWikipediaにあった。
超絶インテリなサンサーンスにあんなものが理解できないはずはない。
プライドも高いおっさんだから他の作曲家と比べられるのが嫌だったのかなと思ってみたり。
それより驚くのはサンサーンスがラヴェルと同時代人だという事実。わかってはいるんだけど・・彼の作風は時代と50年ずれて聞こえる。
昔読んだマニュエル・ロザンタールの本にこんな話がありました。
ラヴェルは弟子の作品が演奏されるイベントを見に行ったが警備員に止められた・・
おっさんここから先は招待者だけだよ・・みたいなのかな?
なにを言ってるんだ!俺はモーリス・ラヴェルだぞ!!とか言って叫んでいたけど
ダメだと言って入れてもらえなかったらしい。
世界をぶっ飛ばすようなスーパー名前も、そこに価値を感じない人の前では何の意味もないんだよね。
名前にはリアリティが感じられないけれど、私の中にリアルな私がいるのも間違いない。

同じ日、別な場所。
ペンキ塗りたて?とか思いながらドアの取っ手じゃないところを手で押してベチャ・・・
これが私。
まさに私。
どこ行ってもうまくいかず逃げちゃってる糞みたいなやつも私。
愛おしい私。