明るいメランコリー
嫁さんの車
いつものようにドアを開けたら鉄砲玉みたいに飛び降り・・

たと思ったらまた戻ちゃった。
あれれどうしたの?

お、お降りられまれり・・・
訳の分かんないことを言って降りようとしないのは
ここが病院だと知っているから。
別に病気じゃなくて爪切りに来ただけだけど。
診察台の上で世界一惨めな人みたいな顔になっちゃって・・

終わっても興奮冷めやらず・・か、かえりますよ・・
興奮のあまり何を間違えたか自分からまた診察室へ入って行ったり・・
落ち着きなはれ。

終わって安堵の図。
このままどこかへ連れてってあげようかと思ったけれどまだ爪から血が出ているので細菌侵入を嫌って帰宅。
初めて爪切ってやったときびっくりした。
人って爪切ったって血なんかでないでしょ?
犬も自分でびっくりしちゃって二人で大騒ぎになっちゃって・・

10月も後半だけれど、朝顔は毎日花を見せてくれる。
他より成長が遅いことは劣っているのとは違うんだね。
今年はスダチの実はあんまりならなかった。
いいよたった1個だってなればならないことよりずっとすごい。

夜になって会社から帰ると朝顔がまだ頑張って咲いて見せてくれてたり・・・
見てなんか言ってあげるとしぼんでいくんですよね。
なんていえばすかさず「そんなのただ気温が低かっただけだろ!」みたいなのが現れるわけだ。
そうだねさすがだね。
https://www.youtube.com/watch?v=2yU2TdWVBYM
これはプーランクのメランコリーという曲で。
メランコリーという言葉にはブラームスに見かける落ち葉が秋風にさらわれていくような世界を連想するけれど、この音楽そういうのとは全然違いますね。このタイトルには作者の皮肉が込められているんじゃないかと私は思います。
明るい月明りに照らされたノクターンみたいでもあるこの曲、おしゃれ音楽のようで意外にいろいろ面白い。

調号変ニ長調ではじまる・・・素直に変ニ長調というわけでもないような気もするけれどまあそれがその先で

ニ長調に転調してまた歌い始める。
自由なようで音楽には体系的な理論とルールみたいなものがあります。
変ニ長調とニ長調というのはとんでもなく遠い調でそこを一気に飛び越える転調なんてのは気が振れたような話で絶対にやっちゃいけませんよという合意のもとに何百年も音楽はやってきた。
半音って鍵盤だとすぐ隣だから最も近いんじゃないの?とか思っちゃいそうけどその距離じゃなくてね。4は2で割れるけど3じゃ割れないでしょう?・・ちょっと違うけど・・いや意外に違わないか。
ドイツにリヒャルト・シュトラウスという作曲家がいて、冒頭だけ誰でも知っているツァラトゥストラはかく語りきという曲があるわけです。
曲の結末でハ長調(でもハ短調でもないハ調か)とロ長調が同時進行する場面があるんですね。
ニーチェの書いた本は最初の3ページで読むの止めちゃったけどこの部分、人間と自然というどこまで行っても絶対融合しえないものの距離感を表現しているんだと思う。

聴けばかなり不自然でどこまでも落ち着かない印象を受けるその部分は音楽史上前人未到のとんでもないことが行われた瞬間みたいなことになっており、何しろ一番大事なこの瞬間をこちらもそういうつもりで聴くわけ・・
こういうもの単体を考えたり作ることは別段難しいことじゃないし素人にだってできるんだけれど、それを公の場に芸術作品として出すだけじゃなく世間に認めさせるということは結構とんでもないことなわけだ。そしてそこを打ち破ってきた人間が歴史に名を刻む。
ところがこのプーランクというおっさんのこの曲はそこをそんな大げさな話の真逆、タバコ咥えて半笑いで「しらねーよ」みたいにさらっと通過してゆく。
まあ、だからと言ってプーランクが超絶革新的だとか偉大だとか言うのもまた違うとは思う。時代の流れや周囲環境もあるもんね。
それでもこれがこの人の強烈な個性なのは間違いない。調号が変わるところは新鮮な光が当たったかのようないい感じで超えるんだけれど、この冒頭の再現が半音上に出てくるところは結構すごい。
ちょっとこっちに置かせて・・と棚上げにさえたそれがいつの間にか話の本筋にすり替わっている感じ。
くだらねーと事こだわってるとおいてかれちゃうみたいな。
喜びの歌みたいにな中間部に感動してたのがおさまりまた冒頭が再現されるところ、

今度は最初の半音下のハ長調になっちゃって・・さすがにここは楽譜無しでもあれ?とか思う。
このあれ?が大事だから。
あきらかにわざとやっています・・さらっと・・すごいね。
この人きっと、お酒飲んで話をさせても人を引き付けるような感じだったんじゃないかなぁ・・
男でも女でも両方いけたらしいけど、即興でこんなの弾かれて楽しい話と酒と・・ってそりゃツイてっちゃうだろうなぁ・・
俺は男は嫌だけど。
私は絶対音感のかけらもないし調性和声感覚とかそういうのも怪しい。
だから音だけ聴いてこういうのを聞き取る力がそういう感覚の強い人より劣るかもしれない。
劣るったって音楽で飯を食えるわけでもない俺にそんなもんいらねーけどね・・・本当は押せば音が出るような電子楽器と違い、管楽器なんかをやるならそういう力が必要。
この曲もただ耳で聞くだけだとなんか不思議で不安定な転調してる?くらいで終わっちゃう。
だから私にとっては弾かなくても弾けなくても楽譜を見て視覚的な発見を得ることに大きな意味と喜びがあるんですね。
知らねーよってな話でしょうけど。
わかると今度そのつもりで聴くようになり、何にも知らなかった時とは違うものが聴こえるようになてくる。
もともとそういうのを書こうと思ったブログなんだけど、そんなこと書いても読んでくれる人もあんまりいないだろうし思ったことを全部だらだら書くブログになちゃって・・
最近はいろんな人に読んでもらえてうれしいです。
ありがとう。

自由なようで最後は元の調号に戻るところがいいですよね。それでまた最終音のあの感じ・・
次の日はすごくいい天気。
自治会の仕事を終えるとちょうど昼過ぎだ。
犬も一緒にパンでも食べにどこか行こうか?

でっかい富士山。

後ろの木々は紅葉してるんじゃなくて台風に潮風を吹き付けられ枯れちゃってるところ・・
ちょっと悲しい感じ。
来年、ちゃんと新芽が出てくれるのかな?
犬も今日はなんかいつもと違う。
いつもならつかれちゃってヘロヘロになりながらもっとどっかいこうよー!とかいうのに。
歩きだしたらすぐ自分からもう帰りましょう・・
季節外れな暑さのせいだよね?
家族というか娘で親友みたいだから、老いを意識するのは寂しい。
朝顔も、あんなに頑張ってくれると一日でも長く頑張れ!と思う反面、最後の日を予感して何だか寂しい気持ちが来たりする。
自分も最後を感じる日が来る前に、もう少し何かしておきたい。
ずーっと暗いというか憂鬱な気分の中にいたけれど、吉野山に登ったあたりからか頭の中にやってみようということを浮かべてみたらちょっと安定してる。
薄暗いマンホールの中で梯子につかまっていて下を見ればお前人間失格だろみたいな色の泥水。
今、上を見るとさらにその上に一本の掴み棒が見えた。
登れるかもしれない・・・
そういう感じ。
これだけで少し気持ちの温度が上がる・・でもだからと言ってここにとどまればあの掴み棒は消えてしまったり、落ちてきて私を引きずり落とす錘になったり・・
進もうと手をかければ届かないことに気付く瞬間や、砂でできた棒が崩れるのを見たり・・
傍から見ればへんなポエムに見えるのかもしれないけれど大きなお世話ですよね。人の中の世界なんか人それぞれなんだから。
経験的にこういう上昇した気分もあっという間になくなっちゃってあれは幻だったのかなんて思うのも知っているけれど、いいじゃない今が良ければ。
いつものようにドアを開けたら鉄砲玉みたいに飛び降り・・

たと思ったらまた戻ちゃった。
あれれどうしたの?

お、お降りられまれり・・・
訳の分かんないことを言って降りようとしないのは
ここが病院だと知っているから。
別に病気じゃなくて爪切りに来ただけだけど。
診察台の上で世界一惨めな人みたいな顔になっちゃって・・

終わっても興奮冷めやらず・・か、かえりますよ・・
興奮のあまり何を間違えたか自分からまた診察室へ入って行ったり・・
落ち着きなはれ。

終わって安堵の図。
このままどこかへ連れてってあげようかと思ったけれどまだ爪から血が出ているので細菌侵入を嫌って帰宅。
初めて爪切ってやったときびっくりした。
人って爪切ったって血なんかでないでしょ?
犬も自分でびっくりしちゃって二人で大騒ぎになっちゃって・・

10月も後半だけれど、朝顔は毎日花を見せてくれる。
他より成長が遅いことは劣っているのとは違うんだね。
今年はスダチの実はあんまりならなかった。
いいよたった1個だってなればならないことよりずっとすごい。

夜になって会社から帰ると朝顔がまだ頑張って咲いて見せてくれてたり・・・
見てなんか言ってあげるとしぼんでいくんですよね。
なんていえばすかさず「そんなのただ気温が低かっただけだろ!」みたいなのが現れるわけだ。
そうだねさすがだね。
https://www.youtube.com/watch?v=2yU2TdWVBYM
これはプーランクのメランコリーという曲で。
メランコリーという言葉にはブラームスに見かける落ち葉が秋風にさらわれていくような世界を連想するけれど、この音楽そういうのとは全然違いますね。このタイトルには作者の皮肉が込められているんじゃないかと私は思います。
明るい月明りに照らされたノクターンみたいでもあるこの曲、おしゃれ音楽のようで意外にいろいろ面白い。

調号変ニ長調ではじまる・・・素直に変ニ長調というわけでもないような気もするけれどまあそれがその先で

ニ長調に転調してまた歌い始める。
自由なようで音楽には体系的な理論とルールみたいなものがあります。
変ニ長調とニ長調というのはとんでもなく遠い調でそこを一気に飛び越える転調なんてのは気が振れたような話で絶対にやっちゃいけませんよという合意のもとに何百年も音楽はやってきた。
半音って鍵盤だとすぐ隣だから最も近いんじゃないの?とか思っちゃいそうけどその距離じゃなくてね。4は2で割れるけど3じゃ割れないでしょう?・・ちょっと違うけど・・いや意外に違わないか。
ドイツにリヒャルト・シュトラウスという作曲家がいて、冒頭だけ誰でも知っているツァラトゥストラはかく語りきという曲があるわけです。
曲の結末でハ長調(でもハ短調でもないハ調か)とロ長調が同時進行する場面があるんですね。
ニーチェの書いた本は最初の3ページで読むの止めちゃったけどこの部分、人間と自然というどこまで行っても絶対融合しえないものの距離感を表現しているんだと思う。

聴けばかなり不自然でどこまでも落ち着かない印象を受けるその部分は音楽史上前人未到のとんでもないことが行われた瞬間みたいなことになっており、何しろ一番大事なこの瞬間をこちらもそういうつもりで聴くわけ・・
こういうもの単体を考えたり作ることは別段難しいことじゃないし素人にだってできるんだけれど、それを公の場に芸術作品として出すだけじゃなく世間に認めさせるということは結構とんでもないことなわけだ。そしてそこを打ち破ってきた人間が歴史に名を刻む。
ところがこのプーランクというおっさんのこの曲はそこをそんな大げさな話の真逆、タバコ咥えて半笑いで「しらねーよ」みたいにさらっと通過してゆく。
まあ、だからと言ってプーランクが超絶革新的だとか偉大だとか言うのもまた違うとは思う。時代の流れや周囲環境もあるもんね。
それでもこれがこの人の強烈な個性なのは間違いない。調号が変わるところは新鮮な光が当たったかのようないい感じで超えるんだけれど、この冒頭の再現が半音上に出てくるところは結構すごい。
ちょっとこっちに置かせて・・と棚上げにさえたそれがいつの間にか話の本筋にすり替わっている感じ。
くだらねーと事こだわってるとおいてかれちゃうみたいな。
喜びの歌みたいにな中間部に感動してたのがおさまりまた冒頭が再現されるところ、

今度は最初の半音下のハ長調になっちゃって・・さすがにここは楽譜無しでもあれ?とか思う。
このあれ?が大事だから。
あきらかにわざとやっています・・さらっと・・すごいね。
この人きっと、お酒飲んで話をさせても人を引き付けるような感じだったんじゃないかなぁ・・
男でも女でも両方いけたらしいけど、即興でこんなの弾かれて楽しい話と酒と・・ってそりゃツイてっちゃうだろうなぁ・・
俺は男は嫌だけど。
私は絶対音感のかけらもないし調性和声感覚とかそういうのも怪しい。
だから音だけ聴いてこういうのを聞き取る力がそういう感覚の強い人より劣るかもしれない。
劣るったって音楽で飯を食えるわけでもない俺にそんなもんいらねーけどね・・・本当は押せば音が出るような電子楽器と違い、管楽器なんかをやるならそういう力が必要。
この曲もただ耳で聞くだけだとなんか不思議で不安定な転調してる?くらいで終わっちゃう。
だから私にとっては弾かなくても弾けなくても楽譜を見て視覚的な発見を得ることに大きな意味と喜びがあるんですね。
知らねーよってな話でしょうけど。
わかると今度そのつもりで聴くようになり、何にも知らなかった時とは違うものが聴こえるようになてくる。
もともとそういうのを書こうと思ったブログなんだけど、そんなこと書いても読んでくれる人もあんまりいないだろうし思ったことを全部だらだら書くブログになちゃって・・
最近はいろんな人に読んでもらえてうれしいです。
ありがとう。

自由なようで最後は元の調号に戻るところがいいですよね。それでまた最終音のあの感じ・・
次の日はすごくいい天気。
自治会の仕事を終えるとちょうど昼過ぎだ。
犬も一緒にパンでも食べにどこか行こうか?

でっかい富士山。

後ろの木々は紅葉してるんじゃなくて台風に潮風を吹き付けられ枯れちゃってるところ・・
ちょっと悲しい感じ。
来年、ちゃんと新芽が出てくれるのかな?
犬も今日はなんかいつもと違う。
いつもならつかれちゃってヘロヘロになりながらもっとどっかいこうよー!とかいうのに。
歩きだしたらすぐ自分からもう帰りましょう・・
季節外れな暑さのせいだよね?
家族というか娘で親友みたいだから、老いを意識するのは寂しい。
朝顔も、あんなに頑張ってくれると一日でも長く頑張れ!と思う反面、最後の日を予感して何だか寂しい気持ちが来たりする。
自分も最後を感じる日が来る前に、もう少し何かしておきたい。
ずーっと暗いというか憂鬱な気分の中にいたけれど、吉野山に登ったあたりからか頭の中にやってみようということを浮かべてみたらちょっと安定してる。
薄暗いマンホールの中で梯子につかまっていて下を見ればお前人間失格だろみたいな色の泥水。
今、上を見るとさらにその上に一本の掴み棒が見えた。
登れるかもしれない・・・
そういう感じ。
これだけで少し気持ちの温度が上がる・・でもだからと言ってここにとどまればあの掴み棒は消えてしまったり、落ちてきて私を引きずり落とす錘になったり・・
進もうと手をかければ届かないことに気付く瞬間や、砂でできた棒が崩れるのを見たり・・
傍から見ればへんなポエムに見えるのかもしれないけれど大きなお世話ですよね。人の中の世界なんか人それぞれなんだから。
経験的にこういう上昇した気分もあっという間になくなっちゃってあれは幻だったのかなんて思うのも知っているけれど、いいじゃない今が良ければ。