ゆっくり歩いた
風邪が収束する気配を見せない。
まずいな。
正月休みももう終わり、天気がいいし昼はパンでも買って犬と山へ行こうという事になった。

またあそこでいいや・・いや、あそこがいいや。
いつもの場所は重機が動いて山土をダンプに積み込んでる。
そうかもう仕事始まってんのか。
嫁さんが見えるようなところじゃいやだというからもう少し奥の方へ。

すっごく晴れて気持ちい。

置いてあるパンをくすねようと背後から忍び寄る獣。
だめだよ。

いいでしょうこの雲。
食べるものたべたし、ちょっと歩こうか。

この道続いてそうじゃない?
あっちへ行ってみようよ。

突き当りには豪快に富士山・・
富士山は正月休みの間ずっと雲をかぶってた。

この道をどんどん下っていけばどこに出るかだいたい見当はつく。
歩いていっちゃったりすると取り返しがつかないくらいな距離なことも。
あの赤いトラクターが走っている道を登れば、大回りして元の位置へ戻れることもなんとなく知ってる。
嫁さんに結構歩くよとか坂だよなんていえば行かないとか言い出しそうだから余計なことは黙って・・
https://www.youtube.com/watch?time_continue=1558&v=2bH1-HRi29c
ブラームスの交響曲第2番
数日前に書いたマーラーの交響曲第3番と同じく、この曲も季節があるとすれば夏。
マーラーのと同じ、高地の湖のほとり・・さわやかな避暑地の夏。
遠くには美しく高い山、豊かな森、湖を見下ろす傾斜地にはブドウ畑・・とかでしょう。
スケルツォとはちがう牧歌的な第3楽章はそんなブドウ畑の中を散歩しているみたいな音楽だけど、のどかな景色と裏腹に2回あるトリオの拍子が2拍子系から3拍子系に変わったりという遊びをやっている。
超絶プレッシャーの中生み出された1番の後、これはちょっと自由な自分でやらせてもらいますよ・・みたいな。
そしてさらにその点でマーラーの交響曲第3番の第2楽章はこの楽章の発展的パロディーではないのかという話があったりするわけですね。
その説明を書きたいけど譜例はたくさん載せないと話が通じなそうなのでやめる。

第1トリオに入る部分
Prestというのは速度指示ですごく速くやるんだけど、ma non assaiと書いてあるのがブラームスだなという感じ・・
この、「だけど極端にやらないで!」というたしなめみたいなのがそこら中に書いてあるのがこの人の特徴の一つでしょう。
だからと言ってあんまり変化のないような演奏をしていたのかというとそれもまた全然違うんだろうなぁ・・
指揮者としてのマーラーの演奏会の記録を見るとブラームスの3つの交響曲を取り上げていたと思う。
4番は内容がないとか言って嫌ったらしい。
それじゃ残りの3曲には内容があると思ってたわけで・・というか結構好きだったんじゃないかと思うんですよね。
3番を特に気に入っていたように見えるのもマーラーらしいね。
ブラームスとマーラーの交響曲って外面的には全く違うもののようにも見えるけれど、ベートーベンから続く同じレールの上に乗っかっているんだなぁと思うことがあります。
マーラーの指揮するブラームスってどんなだったんだろうか?
彼の楽譜には「気付かれないように・・」という指示もあるけれど、唐突に!極端に!みたいなのがいっぱい出てくる。
そこがまさにマーラーの音楽の一つの大きな特徴なのであって、志は共通しているとしてもブラームスの延長みたいな感覚でマーラーを聴いてはいけない。
もういいか。

気分がいいと、こんなものまで素晴らしく見えてしまい思わず写真を撮ったりする。

この道を歩くのは34年ぶり。
小学生の私は自転車を引いてここを登り、この光景も見たはず。
あの明かりの先で、いつものあの道に合流するはず。
昨日だったか突然、
発達性協調運動障害 DCD という話が出てきて興味をひかれた。
こんなところに書いたって誰も興味もないだろうけど、本人的には興味を惹かれたどころの話ではない。
いくつものそのまま合致する例の中には楽器が演奏できない・・というのがあったりして笑った。
最近出てきた話らしけれど、もう聞きかじった浅はかな知識と個人の想像で書いたような陳腐な解説めいたものが存在したりもする。
未来のある子どもやその親にとっては重要な情報であるのだろうけれど、劣等感に包まれ世の中から身を隠して人生の半分以上を生きてきた人間には別な意味を持ってい来ると思う。
自分としては長い時間をかけ自覚していたことに名前が付いただけかもしれない。
もう、これで嘆こうとかどうこうというわけでもない。
私は私なりにできることをやって生きてきた。
この先だって標準によらず、できることをできるように見つけていけばいいと思う。
もう人生も後半、育てるべき子もいない。
この自分とゆっくり歩いていけばいいと思う。
今はとにかく風邪が治らなのがまずい。

キャベツが丸まろうとしているところだった。

こっちは一面の白菜。
鍋にするか・・・やっぱりカレー食いてーな。
犬はやっぱり昔に比べるとかなり体力が落ちているみたいだ。
写真を撮るとみんな老け顔だし。
自分ではどう思ってんだろう?
犬にだって、老けたねなんていっちぃけないんだろうな。
まずいな。
正月休みももう終わり、天気がいいし昼はパンでも買って犬と山へ行こうという事になった。

またあそこでいいや・・いや、あそこがいいや。
いつもの場所は重機が動いて山土をダンプに積み込んでる。
そうかもう仕事始まってんのか。
嫁さんが見えるようなところじゃいやだというからもう少し奥の方へ。

すっごく晴れて気持ちい。

置いてあるパンをくすねようと背後から忍び寄る獣。
だめだよ。

いいでしょうこの雲。
食べるものたべたし、ちょっと歩こうか。

この道続いてそうじゃない?
あっちへ行ってみようよ。

突き当りには豪快に富士山・・
富士山は正月休みの間ずっと雲をかぶってた。

この道をどんどん下っていけばどこに出るかだいたい見当はつく。
歩いていっちゃったりすると取り返しがつかないくらいな距離なことも。
あの赤いトラクターが走っている道を登れば、大回りして元の位置へ戻れることもなんとなく知ってる。
嫁さんに結構歩くよとか坂だよなんていえば行かないとか言い出しそうだから余計なことは黙って・・
https://www.youtube.com/watch?time_continue=1558&v=2bH1-HRi29c
ブラームスの交響曲第2番
数日前に書いたマーラーの交響曲第3番と同じく、この曲も季節があるとすれば夏。
マーラーのと同じ、高地の湖のほとり・・さわやかな避暑地の夏。
遠くには美しく高い山、豊かな森、湖を見下ろす傾斜地にはブドウ畑・・とかでしょう。
スケルツォとはちがう牧歌的な第3楽章はそんなブドウ畑の中を散歩しているみたいな音楽だけど、のどかな景色と裏腹に2回あるトリオの拍子が2拍子系から3拍子系に変わったりという遊びをやっている。
超絶プレッシャーの中生み出された1番の後、これはちょっと自由な自分でやらせてもらいますよ・・みたいな。
そしてさらにその点でマーラーの交響曲第3番の第2楽章はこの楽章の発展的パロディーではないのかという話があったりするわけですね。
その説明を書きたいけど譜例はたくさん載せないと話が通じなそうなのでやめる。

第1トリオに入る部分
Prestというのは速度指示ですごく速くやるんだけど、ma non assaiと書いてあるのがブラームスだなという感じ・・
この、「だけど極端にやらないで!」というたしなめみたいなのがそこら中に書いてあるのがこの人の特徴の一つでしょう。
だからと言ってあんまり変化のないような演奏をしていたのかというとそれもまた全然違うんだろうなぁ・・
指揮者としてのマーラーの演奏会の記録を見るとブラームスの3つの交響曲を取り上げていたと思う。
4番は内容がないとか言って嫌ったらしい。
それじゃ残りの3曲には内容があると思ってたわけで・・というか結構好きだったんじゃないかと思うんですよね。
3番を特に気に入っていたように見えるのもマーラーらしいね。
ブラームスとマーラーの交響曲って外面的には全く違うもののようにも見えるけれど、ベートーベンから続く同じレールの上に乗っかっているんだなぁと思うことがあります。
マーラーの指揮するブラームスってどんなだったんだろうか?
彼の楽譜には「気付かれないように・・」という指示もあるけれど、唐突に!極端に!みたいなのがいっぱい出てくる。
そこがまさにマーラーの音楽の一つの大きな特徴なのであって、志は共通しているとしてもブラームスの延長みたいな感覚でマーラーを聴いてはいけない。
もういいか。

気分がいいと、こんなものまで素晴らしく見えてしまい思わず写真を撮ったりする。

この道を歩くのは34年ぶり。
小学生の私は自転車を引いてここを登り、この光景も見たはず。
あの明かりの先で、いつものあの道に合流するはず。
昨日だったか突然、
発達性協調運動障害 DCD という話が出てきて興味をひかれた。
こんなところに書いたって誰も興味もないだろうけど、本人的には興味を惹かれたどころの話ではない。
いくつものそのまま合致する例の中には楽器が演奏できない・・というのがあったりして笑った。
最近出てきた話らしけれど、もう聞きかじった浅はかな知識と個人の想像で書いたような陳腐な解説めいたものが存在したりもする。
未来のある子どもやその親にとっては重要な情報であるのだろうけれど、劣等感に包まれ世の中から身を隠して人生の半分以上を生きてきた人間には別な意味を持ってい来ると思う。
自分としては長い時間をかけ自覚していたことに名前が付いただけかもしれない。
もう、これで嘆こうとかどうこうというわけでもない。
私は私なりにできることをやって生きてきた。
この先だって標準によらず、できることをできるように見つけていけばいいと思う。
もう人生も後半、育てるべき子もいない。
この自分とゆっくり歩いていけばいいと思う。
今はとにかく風邪が治らなのがまずい。

キャベツが丸まろうとしているところだった。

こっちは一面の白菜。
鍋にするか・・・やっぱりカレー食いてーな。
犬はやっぱり昔に比べるとかなり体力が落ちているみたいだ。
写真を撮るとみんな老け顔だし。
自分ではどう思ってんだろう?
犬にだって、老けたねなんていっちぃけないんだろうな。