鉛色の世界から
経済学者が景気が変動するのは当たり前で悪くなるのは仕方がないと言っていた。学者じゃなくてもわかるような当たり前の話が妙に響くことがある。気分も下がる日があっていいんだろ。
この日湿った気分が尾を引き、天気も湿って鉛色。
行き先が決まりかけると全然違う事を口に出す嫁さんの話に乗って昨年発見した昭和な和食屋に向かう。
あのとき、食った後楽器のレッスンの契約に行ったんだった。暗雲が立ち込めちゃってるじゃんかとか言ったりして。
あ、

あれ・・
つぶれてる?
俺の人生もつぶれてる?
いや俺はつぶれないけど、
なんだよこれ。

向かいの山には季節外れの雪。
行きたかった店がやってなかったという以上の何か重いものを感じながら・・・
https://www.youtube.com/watch?v=A2El2BPzZ0Y&list=PL5NtnZdjpDm7xiXXRWMvep3FJqQKX88oH&index=3
これが頭の中で流れたりして。
この音楽は非情に残酷な虐殺の場面のあとに続くもの。
朗々とというか淡々と歌われているのは労働者の革命歌みたいなので弾圧の犠牲になった人への追悼なんだと思うけれど、中間部の別な歌がいよいよ盛り上がって長調へ転調するのかっという期待をなんども裏切り一向に転調してさけんではくれない。なんというかそこに救いのなさが・・
この曲を初めて聴いたのは高校の頃。
何も知らず初めて聴いた人間にも冷たく凍った空気の中たくさんの人が無残に殺されていったことを告発し、追悼する音楽だというような事がわかった。
分かりやすい視覚的描写にはどことなく娯楽性みたいなものも感じ、重く悲惨な内容ではあるけれど聴いた自分の気分まで沈んでしまう事もなく映画を楽しむような感覚で楽しんでしまうところがあると思う。
このかなり個性的な演奏でショスタコーヴィッチの交響曲第11番を初めて聴いたとき、鉛色の音楽だと思った。
今でもそう思う。鉛色のにおいもする。
代わりの店を探す気持ちも盛り上がらず、

ファミレスでいいにする。
安定していていいと思うけれどどこも人を減らして食洗器だけに頼っているらしく取り皿や箸など油断ができない。口紅べちゃーなカップにもまいったけれど、箸についた汚れは最悪な想像を呼んで厳しいものがある。
あらかじめ用意されている箸を確認していくと何本もあるのにほとんど使えないのはリードみたいだな。
ずっとリードのせいだと思っていた不具合はやっぱり自分の側に原因があることに昨日気づいた。
それは私にとっては朗報で、景気対策が効いた瞬間みたいなものでもある。
だからと言っていこれから良い結果が得られてゆくわけじゃないのもわかってる。
そもそもそんなこと何にも教えない小さな子供にでもいきなりできることらしい。
標準のフォーマットが読めないのでめちゃくうちゃやって偶然見つかればできるようになるかもしれない程度。出来損ないというやつであろう。まあ当たり前だし、しかたがない。
小さく明るいものを拾い集めて・・すぐに消えちゃいそうな明かりを大事に抱えて・・
嫁さんが買い物をしている間、周囲をほっつき歩く。

しょっちゅう車で通過するこの橋を歩いて渡り立ち止まったのは40年以上ぶり。ちょうど日が差して・・風が吹き抜ける。
かけ替え前の古い橋だったと思う、状況から考えてまだ4歳になる前の私はここへきて川を見下ろした・・そして・・
残念なその記憶は自分を考えるヒントとして何度も思い出されてきたのだけど、40年たった今やっとそのことに対する考えが変わった。
もうそれはいいにしようよとあの時の自分に言ってみる。
反対側には

川沿いに遊歩道みたいなものが。あんなのあったんだ。
あっちへ行ってみようか。
子供のころからこのでっかい川は近くに来ると生活排水の匂いがものすごかったのだけどあまり気にならななかったのは公共下水道整備の効果が出てきたから?
堤防下の公園では若いお母さんが3歳くらいの子供を遊ばせていた。
いいね。
橋の上にいた俺も年齢的にはあんな感じかな。
あの子はこの日のことは忘れちゃうのかな?
具体的な記憶は消えてもその時感じたことの積み重ねがその人間を作っていくと思う。
かなり行った先で

行き止まり。
俺の人生も行き止まり?
行き止まらねーよ戻ればいいだけだ。
人生に後戻りはありません。
まあそうだよなぁ。
先を見通す力はないけれど、後で今を後悔しないようにはしたいなぁ。
嫁さんから電話がかかってきたので戻ることにする。
途中にコーヒー豆の商社があって焙煎もやっているらしくとてもいい香りがする。
幼いころ父親とこのあたりに来たときに、コーヒーのにおいがするね・・どこかに喫茶店があるのかな?
と話した記憶がある。
見つけられなかった香りの震源地をその20年後にここに発見し、それからまた20年たった。
父親との会話は数も少ないけれど別に全部が鉛色なわけでもなくわずかながら色のついたものもあった。
私自身は父親にならなかった。
ずーっと楽器の練習は欠かさなかったんだけど、この日は練習を休んだ。
口内炎ができてるから・・・
でも実際口内炎は楽器と関係ないところにあり、それが痛むようなら間違った吹き方をしているということ。
そんなつもりは毛頭ないと自分で思っていたけれどでもこういうの、そのままずるずる行っちゃってそれっきりというのがよくあると思う。
でも行ったよ練習。
言われたほど、自分で思い込んでいるほどひどくないんじゃないかと感じ
まあ他人から見ればひどいんだろうけど、またやろうと思えた。
それがどうしたってな話でしょうけど、
私にとっては東の山から日が昇るくらい大事なことなので。
後で調べると畳んだあのお店、何で閉めたのかは知らないけれどあの夫妻はどこかに元気でいるようだ。
そっか、じゃあいいか。
この日湿った気分が尾を引き、天気も湿って鉛色。
行き先が決まりかけると全然違う事を口に出す嫁さんの話に乗って昨年発見した昭和な和食屋に向かう。
あのとき、食った後楽器のレッスンの契約に行ったんだった。暗雲が立ち込めちゃってるじゃんかとか言ったりして。
あ、

あれ・・
つぶれてる?
俺の人生もつぶれてる?
いや俺はつぶれないけど、
なんだよこれ。

向かいの山には季節外れの雪。
行きたかった店がやってなかったという以上の何か重いものを感じながら・・・
https://www.youtube.com/watch?v=A2El2BPzZ0Y&list=PL5NtnZdjpDm7xiXXRWMvep3FJqQKX88oH&index=3
これが頭の中で流れたりして。
この音楽は非情に残酷な虐殺の場面のあとに続くもの。
朗々とというか淡々と歌われているのは労働者の革命歌みたいなので弾圧の犠牲になった人への追悼なんだと思うけれど、中間部の別な歌がいよいよ盛り上がって長調へ転調するのかっという期待をなんども裏切り一向に転調してさけんではくれない。なんというかそこに救いのなさが・・
この曲を初めて聴いたのは高校の頃。
何も知らず初めて聴いた人間にも冷たく凍った空気の中たくさんの人が無残に殺されていったことを告発し、追悼する音楽だというような事がわかった。
分かりやすい視覚的描写にはどことなく娯楽性みたいなものも感じ、重く悲惨な内容ではあるけれど聴いた自分の気分まで沈んでしまう事もなく映画を楽しむような感覚で楽しんでしまうところがあると思う。
このかなり個性的な演奏でショスタコーヴィッチの交響曲第11番を初めて聴いたとき、鉛色の音楽だと思った。
今でもそう思う。鉛色のにおいもする。
代わりの店を探す気持ちも盛り上がらず、

ファミレスでいいにする。
安定していていいと思うけれどどこも人を減らして食洗器だけに頼っているらしく取り皿や箸など油断ができない。口紅べちゃーなカップにもまいったけれど、箸についた汚れは最悪な想像を呼んで厳しいものがある。
あらかじめ用意されている箸を確認していくと何本もあるのにほとんど使えないのはリードみたいだな。
ずっとリードのせいだと思っていた不具合はやっぱり自分の側に原因があることに昨日気づいた。
それは私にとっては朗報で、景気対策が効いた瞬間みたいなものでもある。
だからと言っていこれから良い結果が得られてゆくわけじゃないのもわかってる。
そもそもそんなこと何にも教えない小さな子供にでもいきなりできることらしい。
標準のフォーマットが読めないのでめちゃくうちゃやって偶然見つかればできるようになるかもしれない程度。出来損ないというやつであろう。まあ当たり前だし、しかたがない。
小さく明るいものを拾い集めて・・すぐに消えちゃいそうな明かりを大事に抱えて・・
嫁さんが買い物をしている間、周囲をほっつき歩く。

しょっちゅう車で通過するこの橋を歩いて渡り立ち止まったのは40年以上ぶり。ちょうど日が差して・・風が吹き抜ける。
かけ替え前の古い橋だったと思う、状況から考えてまだ4歳になる前の私はここへきて川を見下ろした・・そして・・
残念なその記憶は自分を考えるヒントとして何度も思い出されてきたのだけど、40年たった今やっとそのことに対する考えが変わった。
もうそれはいいにしようよとあの時の自分に言ってみる。
反対側には

川沿いに遊歩道みたいなものが。あんなのあったんだ。
あっちへ行ってみようか。
子供のころからこのでっかい川は近くに来ると生活排水の匂いがものすごかったのだけどあまり気にならななかったのは公共下水道整備の効果が出てきたから?
堤防下の公園では若いお母さんが3歳くらいの子供を遊ばせていた。
いいね。
橋の上にいた俺も年齢的にはあんな感じかな。
あの子はこの日のことは忘れちゃうのかな?
具体的な記憶は消えてもその時感じたことの積み重ねがその人間を作っていくと思う。
かなり行った先で

行き止まり。
俺の人生も行き止まり?
行き止まらねーよ戻ればいいだけだ。
人生に後戻りはありません。
まあそうだよなぁ。
先を見通す力はないけれど、後で今を後悔しないようにはしたいなぁ。
嫁さんから電話がかかってきたので戻ることにする。
途中にコーヒー豆の商社があって焙煎もやっているらしくとてもいい香りがする。
幼いころ父親とこのあたりに来たときに、コーヒーのにおいがするね・・どこかに喫茶店があるのかな?
と話した記憶がある。
見つけられなかった香りの震源地をその20年後にここに発見し、それからまた20年たった。
父親との会話は数も少ないけれど別に全部が鉛色なわけでもなくわずかながら色のついたものもあった。
私自身は父親にならなかった。
ずーっと楽器の練習は欠かさなかったんだけど、この日は練習を休んだ。
口内炎ができてるから・・・
でも実際口内炎は楽器と関係ないところにあり、それが痛むようなら間違った吹き方をしているということ。
そんなつもりは毛頭ないと自分で思っていたけれどでもこういうの、そのままずるずる行っちゃってそれっきりというのがよくあると思う。
でも行ったよ練習。
言われたほど、自分で思い込んでいるほどひどくないんじゃないかと感じ
まあ他人から見ればひどいんだろうけど、またやろうと思えた。
それがどうしたってな話でしょうけど、
私にとっては東の山から日が昇るくらい大事なことなので。
後で調べると畳んだあのお店、何で閉めたのかは知らないけれどあの夫妻はどこかに元気でいるようだ。
そっか、じゃあいいか。