神様とリードと発達性協調運動障害
暗い海を眺めていると急に

あそこに神様がいるんじゃないか。
その光はだんだん此方へ広がってきて

私に触れてくれ・・・
昔、目の前に現れた小さな光を見ながら子供じゃないんだいつまでもそんなこと考えてるのはおかしいと自分に言い聞かせた。
あったはずの光は消えどこを探しても見つからない。そしてその直後から数年間私の頭はいかれた。
不思議ちゃんアピールじゃなくて悔やんでも悔やみきれない恐ろしい記憶。
その後も引きずられ、引きずり続けている。でも今言いたいのはそれじゃなくて。

リード育てまくり。
全然ダメな私でもリード個体によって吹き心地が全く異なることはわかるので。
いちいち全然ダメって書かずにいられないのはそうなりたくてなったのではないし、長年にわたって染みついたものでそうそう変えられるものではない。
簡単にそういうところがイラつくなんて言われた日は・・
水に数秒つけて丸一日乾かし・・みたいなのをくり返していく。
ちょっと試し吹きしてみるともうものすごくよく鳴るものがいると思えばちょっとこれはつかえないかな?みたいなのも。お前は俺か。
他より遅くても少しづつ育ってよいものを見せてくれるかもしれないから、ここですぐにお前はいらないから消えろなんて言わない。
ここでなんでお前はそうなんだ!っとやられることを繰り返すと、そうなる前に自分から消えようとしたり、何も起こらないよう何もないところへ逃避していようとするようになる。そして自分はいないほうがいいという結論に至る。
まだ自分が子供の時点で俺は子供を作ったらいけないんだと考えていたことを時々思い出す。
自分に子育てというのはないと悟った数年前この人生に何の意味があるのか?という気持ちが抑えられなくなり家を飛び出した。
あてもなく列車に乗って放浪している間、昔自分には無理でやってはいけないのだと諦めた逃げた夢の続きが頭に浮かんでいた。
突然、ごちゃごちゃ言ってないでお前やれよと自分の口が勝手に動いた。
誰かが私に強く伝えてきたんだと感じた。
誰かというのを明確にする必要はないけれど文書の都合上仮に神様と書こうと思う。私が勝手に感じることで特定の宗教上の神を差すものではなくて。
その神様は時々メッセージをくれて私を導いてくれている。
でも、決して手助けはしてくれない。
Dcdだから助けてくださいなんて言っても不思議な力でできないものをできるようにしてなんかくれない。
当たり前だけど。
ダメな自分が練習して、ダメならダメ、やめなければ続く・・ただそれだけ。
詳細までは教えてくれないので飛び込む先を間違えたり、勢い余ってとんでもない金額の楽器を買って無駄にしてしまったりとか間違えもあったけれどそれすらも通るべき筋書きだったのかもなと思う。
それで今回のレッスンは、
ずっと練習してて調子が良かったのでいけるかななんて思ったりもした。
当日午後の勤務中から緊張しているのか胃のあたりが重くなり、帰宅してちょっと吹いてみるとあれ?・・
でレッスンはまたガタガタで先生も怒り切れない。
楽器を片付けながら・・
あなたは曲は吹けていて、どんどん吹けるようになっていくタイプの人だと思うんです。なのに音が出せるようにならないというとても珍しい人です。
そういう人はほかにいませんか?
そんな人見たことないし理解もできないから教えることもできないし、正直困ったなと思ってます・・・
匙を投げたともとれる発言なのにショックより我が意を得たり!なんて思ってる俺もどうかと思うけど、私は私なのでみんなに首をかしげられるみたことのない人間を40年以上も見続けてきた。
そして最近Dcd発達性協調運動障害というのがそこを客観的に説明してくれることを知り、革命的に自分理解が進んだ。
楽器に限らず動作を伴うあらゆることがそんなだから、物心ついたあたりから 出来損ないだのおかしいだの死ねだの言われながら生きる過程で自尊心は低下し自己否定と自己嫌悪を強く抱えた人間となったことを自覚している。
10代後半で街中が自分を知っていて嗚咽や唾をかけてくるようになり、私自身は二人いて今のこの自我は汚れ役の方だと本気で思っていた・・のは血筋からくる統合失調症かとも考えたけれど、なぜああなったのかの説明もできる気がしてきた。
この人生を私は失敗としてとらえているけれど、このまま終わるのは悲しいとも思う。
自分の大好きな音楽、楽器を通してその歪みを取り返してから死にたいと思う。
誰にどう思われようと何を言われようと、どれだけ時間がかかろうと
神様がお前それやってみろと言ってるんだから。
そういえば先生も、
あなたは今吹けないからと言って悲観しないでください
と言ってた気がする。
2重奏の楽譜を用意してもってきますからと言っていてくれたのは肯定的な話で見捨てられたのはないといちいち考えて頭に教え込まなくちゃならないところがあれだけど。
もうずっと昔から物事を悲観的にしかとらえられない思考から逃れられないけれど、今回こそはめげないし投げだしませんよ。
先生にDCDなんて言ったって仕方がない。ただ、がんばります!と言って帰ってくるだけ。
そして実際頑張るから。
ブルックナーという作曲家が歴史に残るような大失敗や無視、誹謗中傷にめげず作曲を続けられたのは、凡人の感覚や理解を超越した究極的な聴衆としての神を意識していたからだと思う。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=1678&v=TB1kDa8owYE
交響曲第8番のAdagio

作曲家が変ニ長調で曲を書いているときはそこに天国的な美しさがあり自然の美しさとは違うものを感じている事が多いと思う。この後さらに結構不思議な転調を繰り返してしていて・・
冒頭から続くわざと不明確に聞こえるようぼかされたような弦楽器の波は、リアル海というより・・あの人カトリックだけど・・仏教でいうと蓮の花の浮かぶ池みたいな・・これもよく見れば彼が好んで使ったブルックナーリズムというものの変形なのであって、宗教画の中に画家が自画像を忍ばせているのに似てる気もする。
でも9番のAdagioみたいに自分が臨死体験的な世界まで行っちゃっているんじゃなく地上から神のいる世界を見ているような気がする。
その後チェロとビオラが歌う歌は地上の人間のリアル苦悩みたいなものを感じたりして・・
大きなクライマックスを経て終結へむかうコーダは不思議なことにもう天国ではなく丘の上に立ち雨上がりの夕日を見ているようなオレンジ色のイメージを私は感じる。
この曲は現世で一生延命いきてる人の音楽なんだ。
話的には関係ないけれどこの盤、録音された年代や状況から考えると非常識なほど音質が悪いことでも有名。とは言えそれでも聴きたいと思わせる演奏が録音されたためいまでも廃盤にならずにいる。Youtubeで聴いてる分にはわからないかもしれない。
コントラバスは実音よりオクターブ高く記譜するのだけど、そういう話じゃなくてこの盤や同じ指揮者の別な演奏を聞いてもコントラバスを楽譜よりオクターブ下げて弾かせているように聴こえる。楽譜と違う事をやることには批判もあるだろう、でもやりたいことというか言いたいことはわかる気がする。
ブログに私はDCDですなんて書いても馬鹿にされるか笑われるだけかもしれません。そもそも誰も読んでないかもしれない。
でもいいのこの記事を書く理由を私も持っているから。

夜中に窓の外を見たら星が光ってんのね。
嫁さんが買ってきた百均の星に癒される。
雨が止んだら練習場いこう。
また練習しよ。

あそこに神様がいるんじゃないか。
その光はだんだん此方へ広がってきて

私に触れてくれ・・・
昔、目の前に現れた小さな光を見ながら子供じゃないんだいつまでもそんなこと考えてるのはおかしいと自分に言い聞かせた。
あったはずの光は消えどこを探しても見つからない。そしてその直後から数年間私の頭はいかれた。
不思議ちゃんアピールじゃなくて悔やんでも悔やみきれない恐ろしい記憶。
その後も引きずられ、引きずり続けている。でも今言いたいのはそれじゃなくて。

リード育てまくり。
全然ダメな私でもリード個体によって吹き心地が全く異なることはわかるので。
いちいち全然ダメって書かずにいられないのはそうなりたくてなったのではないし、長年にわたって染みついたものでそうそう変えられるものではない。
簡単にそういうところがイラつくなんて言われた日は・・
水に数秒つけて丸一日乾かし・・みたいなのをくり返していく。
ちょっと試し吹きしてみるともうものすごくよく鳴るものがいると思えばちょっとこれはつかえないかな?みたいなのも。お前は俺か。
他より遅くても少しづつ育ってよいものを見せてくれるかもしれないから、ここですぐにお前はいらないから消えろなんて言わない。
ここでなんでお前はそうなんだ!っとやられることを繰り返すと、そうなる前に自分から消えようとしたり、何も起こらないよう何もないところへ逃避していようとするようになる。そして自分はいないほうがいいという結論に至る。
まだ自分が子供の時点で俺は子供を作ったらいけないんだと考えていたことを時々思い出す。
自分に子育てというのはないと悟った数年前この人生に何の意味があるのか?という気持ちが抑えられなくなり家を飛び出した。
あてもなく列車に乗って放浪している間、昔自分には無理でやってはいけないのだと諦めた逃げた夢の続きが頭に浮かんでいた。
突然、ごちゃごちゃ言ってないでお前やれよと自分の口が勝手に動いた。
誰かが私に強く伝えてきたんだと感じた。
誰かというのを明確にする必要はないけれど文書の都合上仮に神様と書こうと思う。私が勝手に感じることで特定の宗教上の神を差すものではなくて。
その神様は時々メッセージをくれて私を導いてくれている。
でも、決して手助けはしてくれない。
Dcdだから助けてくださいなんて言っても不思議な力でできないものをできるようにしてなんかくれない。
当たり前だけど。
ダメな自分が練習して、ダメならダメ、やめなければ続く・・ただそれだけ。
詳細までは教えてくれないので飛び込む先を間違えたり、勢い余ってとんでもない金額の楽器を買って無駄にしてしまったりとか間違えもあったけれどそれすらも通るべき筋書きだったのかもなと思う。
それで今回のレッスンは、
ずっと練習してて調子が良かったのでいけるかななんて思ったりもした。
当日午後の勤務中から緊張しているのか胃のあたりが重くなり、帰宅してちょっと吹いてみるとあれ?・・
でレッスンはまたガタガタで先生も怒り切れない。
楽器を片付けながら・・
あなたは曲は吹けていて、どんどん吹けるようになっていくタイプの人だと思うんです。なのに音が出せるようにならないというとても珍しい人です。
そういう人はほかにいませんか?
そんな人見たことないし理解もできないから教えることもできないし、正直困ったなと思ってます・・・
匙を投げたともとれる発言なのにショックより我が意を得たり!なんて思ってる俺もどうかと思うけど、私は私なのでみんなに首をかしげられるみたことのない人間を40年以上も見続けてきた。
そして最近Dcd発達性協調運動障害というのがそこを客観的に説明してくれることを知り、革命的に自分理解が進んだ。
楽器に限らず動作を伴うあらゆることがそんなだから、物心ついたあたりから 出来損ないだのおかしいだの死ねだの言われながら生きる過程で自尊心は低下し自己否定と自己嫌悪を強く抱えた人間となったことを自覚している。
10代後半で街中が自分を知っていて嗚咽や唾をかけてくるようになり、私自身は二人いて今のこの自我は汚れ役の方だと本気で思っていた・・のは血筋からくる統合失調症かとも考えたけれど、なぜああなったのかの説明もできる気がしてきた。
この人生を私は失敗としてとらえているけれど、このまま終わるのは悲しいとも思う。
自分の大好きな音楽、楽器を通してその歪みを取り返してから死にたいと思う。
誰にどう思われようと何を言われようと、どれだけ時間がかかろうと
神様がお前それやってみろと言ってるんだから。
そういえば先生も、
あなたは今吹けないからと言って悲観しないでください
と言ってた気がする。
2重奏の楽譜を用意してもってきますからと言っていてくれたのは肯定的な話で見捨てられたのはないといちいち考えて頭に教え込まなくちゃならないところがあれだけど。
もうずっと昔から物事を悲観的にしかとらえられない思考から逃れられないけれど、今回こそはめげないし投げだしませんよ。
先生にDCDなんて言ったって仕方がない。ただ、がんばります!と言って帰ってくるだけ。
そして実際頑張るから。
ブルックナーという作曲家が歴史に残るような大失敗や無視、誹謗中傷にめげず作曲を続けられたのは、凡人の感覚や理解を超越した究極的な聴衆としての神を意識していたからだと思う。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=1678&v=TB1kDa8owYE
交響曲第8番のAdagio

作曲家が変ニ長調で曲を書いているときはそこに天国的な美しさがあり自然の美しさとは違うものを感じている事が多いと思う。この後さらに結構不思議な転調を繰り返してしていて・・
冒頭から続くわざと不明確に聞こえるようぼかされたような弦楽器の波は、リアル海というより・・あの人カトリックだけど・・仏教でいうと蓮の花の浮かぶ池みたいな・・これもよく見れば彼が好んで使ったブルックナーリズムというものの変形なのであって、宗教画の中に画家が自画像を忍ばせているのに似てる気もする。
でも9番のAdagioみたいに自分が臨死体験的な世界まで行っちゃっているんじゃなく地上から神のいる世界を見ているような気がする。
その後チェロとビオラが歌う歌は地上の人間のリアル苦悩みたいなものを感じたりして・・
大きなクライマックスを経て終結へむかうコーダは不思議なことにもう天国ではなく丘の上に立ち雨上がりの夕日を見ているようなオレンジ色のイメージを私は感じる。
この曲は現世で一生延命いきてる人の音楽なんだ。
話的には関係ないけれどこの盤、録音された年代や状況から考えると非常識なほど音質が悪いことでも有名。とは言えそれでも聴きたいと思わせる演奏が録音されたためいまでも廃盤にならずにいる。Youtubeで聴いてる分にはわからないかもしれない。
コントラバスは実音よりオクターブ高く記譜するのだけど、そういう話じゃなくてこの盤や同じ指揮者の別な演奏を聞いてもコントラバスを楽譜よりオクターブ下げて弾かせているように聴こえる。楽譜と違う事をやることには批判もあるだろう、でもやりたいことというか言いたいことはわかる気がする。
ブログに私はDCDですなんて書いても馬鹿にされるか笑われるだけかもしれません。そもそも誰も読んでないかもしれない。
でもいいのこの記事を書く理由を私も持っているから。

夜中に窓の外を見たら星が光ってんのね。
嫁さんが買ってきた百均の星に癒される。
雨が止んだら練習場いこう。
また練習しよ。