鰻といない人と音楽

ここは吉野家とかみたいなカウンターで回転率重視みたいな造りだけれど、でもちゃんと鰻を炭火で焼いてくれるというお店。
出来た時にはちゃんとした鰻が衝撃の低価格で食べられる画期的なお店だった。
すぐに鰻の価格が高騰してピンチっぽい気がしたけれど、みんなに受け入れらえて値上げしても繁盛してるみたいだ。
専門店なんか行けない私にも鰻を食べさせてくれる貴重な店。
土用を挟んでメニュー限定期間だったみたいだ。
ちょっと割高になっちゃってたのかもしれないけど美味しかったからいいか。
しかし暑い。
どんなに暑くてもここだけはというところに行ってみた。

小さな子供とその親御さんがたくさん。
そうかもう夏休みか・・
小さの子供の歓声と、わたしよりずっと若いお父さんお母さんの笑顔・・
ここにいたくな・・
音楽は人が人に向けて作るものだけれど、こんなわかんないようなのにも届く。
https://www.youtube.com/watch?v=JPEpeHvI_IM
この音楽、興味のない人には暑苦しいだけでしょうね。
でも、私にとってはとても大事なもの。

この曲4声の合唱の他にオケも言葉をもって歌っているようなところがあり、この最後のコントラバスはSelig sindという言葉を持って歌っていると思う。
・・いや重ねてるバスの歌詞は違うでしょとか、真顔で楽器に歌詞があるわけないだろとかそういうのいいから。
これを聴いたのも高校へ入ったくらいからだったか。
この部分なんか毎回泣きそうになりながら何度も聴いた。
旋律的に動くティンパニ、テューバやパープを伴うオーケストレーション、劇的な音楽・・若いロマン派のブラームスであの髭爺では全然ない。
苦しみを抱えて生きる人のために書かれ、幸せで始まり幸せであると結ぶこの曲をブラームスが書いたのは最初の交響曲よりまだ前。あえて敷いたいい意味での石頭路線を突き進み始める前の超絶イケメンな頃だ。
禁断の恋を一生貫いたことで有名なブラームス、他の人とという模索もあったようだけど駄目だった。
自分には妻も子もなく孤独に逝くことが定まった運命なのだと悟った日があったと思う。
そしてそれを静かに受け入れたことが、交響曲第3番のなかに告白されていると私は思っている。
この滝、上流からの流れもあるけれど大量の水がここで湧いているんですね。
そのまま飲んじゃっていいようなきれいな水だと思う。
ちょっとおかしいくらいに冷たく、足を入れていられなかったと思う。
よく知らないけれど、昔はこういうところまで鰻が登ってきたりしたんでしょう?
太平洋の真ん中で生まれてこんなところまでくるっていったい何やってんだろ?
急速に数を減らしているらしい鰻、地球上から鰻の稚魚が消えてしまう日も突然来たりして。
かなり困難ながら少しずつ問題を解決しつつ完全養殖へ向けた研究や思考が進んでいるそうだ。
その前に自分が劣化して鰻を食うと胸やけをして食えねーみたいになっちゃうような気もする。
前に行ってよかったあのお店でジェラートでも。
混んでいるかと思ったらそうでもなかった。

でも食べ終わる頃には次々とお客さんが来てたから、たまたまだったんだね。
小さな子供を連れた・・
静かなおいしい時間をありがとう。

看板犬は奥の方でなんかもぞもぞしていたけれど、私たちを見つけるとしっぽを振って出てきてくれた。
毛をそってあるのかな?暑いもんね。
御歳なのか、事情があるのか、足腰が悪いように見受けられ・・
でも一生懸命なでてぇ・・
また、癒してもらったね。
ありがとう。

今日も生きててよかった。