渡らない橋と咲き続ける花

特に手をかけたりもしないけれど庭に毎年チューリップの花が咲く。
いつもはもう少し咲いて見せてくれるけれど今年は2つ。
別なところにも小さくかわいい花を咲かせて見せてくれるチューリップがいたんだけど隣の樹が駆逐してきて昨年は花をつけなかった。今年も・・

昔の写真を眺めていたら出てきたこれは15年前。
同じ色で今と同じご本人ですよね。
花がかわいいんで思わず写真に撮ったという記憶がかすかに残ってる。だけじゃなくて俺こういうの興味がなかったはずなのにその後何年もこの時期チューリップの写真を撮ってんのね。
この時すでにこれを植えた人はこの世にいなかった。
長生きしたリヒャルト・シュトラウスが晩年、私が死んでもこの花は咲き続けるさと言ったという話が頭に浮かぶ。
マーラーの大地の歌の最終結論でもそんなようなことが語られている。
もうとっくに主はないんだから、一度に庭をリセットして今住んでる人間が好きなものを植えればいいかというかなんで遠慮して生きてかなちゃなんないんだろう?と思わないでもない。
だけど、長年一緒に生きてきて今も生きてる樹を目の前にすると、
切って捨てちゃうなんかできないよなぁ。
その次のかちょっと遠出したらしく

これは渡らずの橋と呼ばれて一部の人には有名な場所。
川を渡りかけた橋がまた元に戻っちゃうのね。
このあたりは超絶地殻変動地帯で隣の山はトンネルを掘ったそばからつぶれてしまうため代わりに山を外から迂回する橋が架けられた。
掘って掘れないこともなかったのかもしれないけれど、ここはダムに沈むルートの迂回路として建設されたため、ここで時間をとって国力増強のための急がれる水力発電所の稼働を遅らせるわけにはいかないとかいろんな理由や判断があったんだろう。

父親が死んだとき、誰にだったか
お前の親父は石橋を全部たたいた挙句渡らないような人だった。
と言われた。
私にとっては
石橋をたたけば周りに迷惑になるとかお前に橋をたたけるわけがないみっともないからやめろ
とそんなことばかりをいう人だった。
だったら奮起して見返してやればいいじゃないかという話は今おいといて
死の数日前に家族が集まりこれが最後になるとみな感じていた穏やかな午後、
親父が
面倒から逃げていただけなんだよな
といったように聴こえた。
耳を疑ったけれど長年のわだかまりが崩れるような気がし・・
そこからいくらの時間もなく逝ってしまったのでその後というものもない。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=1984&v=DX3Yaf5a480
最近悲愴をいくつか聴いて。
地獄のふちに光が差したかのような終楽章の第2主題は

具体的に語る言葉というよりは、なにか漠然としたイメージを積み重ねてゆく夢のようなもののように聴こえる。
頂点に達した直後に圧し折られて絶望の主題をを呼び戻すのも、最後に絶望の闇の向こうへ引きずりおろしてゆくのもこの同じ主題であることを考えるとこれは自分自身の魂なのかもしれないと思ったりもする。
人生の間奏曲みたいな2楽章の5拍子のワルツで、もの悲しい中間部がこの主題を予告しているような気がするのは偶然じゃないんじゃないかと思ったり。

人間、終われば終わり。
私は、何もできず何もしてはいけないと思い込み何もしてこなかった。
テレビの今でしょってあれもあの人も大嫌いだけど、
でも確かに大事なのは唯一今でしょと思う。
これじゃ、いい年して親への恨み言を並べてるだけみたいというか実際そんな感じかもしれないけど
今複数の具体的な問題や不安を抱えていて、そのはけ口を探しちゃうんでしょうね。
あの15年前の写真、他人にはわからない情報がいろいろ写っていて時のたつことの速さと重要性と取り返しのつかなさを教えてくる。
大切なのは今で今しかないと思うんだけど、じゃあどうすべきかはいまいち見えなんだよね。
チューリップがさ、何か教えてくれてるような気もするんだけど。