草のようで
急に暑くなった日。

こんな亡霊みたいに消えかかった富士山は初めて見た。
暑いとヘロヘロになっちゃうから犬の散歩も近場を歩いていると川沿いの歩道にでる。
2年くらい前だったか、この歩道の目地から雑草が生えてくるのを防ぐためにそれ用のシートをかぶせる処理がしてあった。
僅かな時間と費用で施工完了!みたいなカタログをもって役所の担当課に営業をかける人の姿が思い浮かぶ。

だけどそんなもん関係ねーやとぶっ飛ばして生えてくるスギナに笑った。
みんなに愛されるつくしが、この憎まれ排除されようとしているスギナと同じであるという事が人間界みたいで面白い。
しかしこれ担当とかの心中を色々と想像すると・・
これとは違うけど昔特殊工法を売り込むため役所を回るみたいなことをやったことがあった。
実際、戦力としては全く期待されておらず名刺を積んでくる要因になればいいや程度でしかなかったと思うけれどそんなこともわからず真剣にやろうとして。
それで、

アスファルトも斫ってこんなコンクリで完全にふさいでるところがなんだか
頭に来ちゃって徹底抗戦な感じでまた面白い。
だけど草ってこんなもんでも破ったりすんだよななんて思っていると

いた。
やってる人は真剣で、こんなもん見つけて喜んでちゃいけないんだろう。
草は草で命がけの真剣勝負だったりするんだろう。
今は全然違う業種で全然違う事をやっているけれど4月か5月になるとがちがちに緊張した若い子が飛び込み営業をかけてきたのを見て自分を思い出したことがあった。
自分としては真剣なつもりだった営業活動ではそこそこのリアクションも取れて・・と思っていたけど実際はへんなのがひょこひょこきたのを見てかまってくれたというところだったのかもな。
そうじゃなく見積もりもってこいなんて言われたこともあったけれど自分で見積もりができる段階では全くなく、持ち帰っても誰もそれを真に受けず相談もできないのでそのまま放置したりして・・

なんかこっち見て笑ってるみたいだね。
結構な成りだけど人が植えた観葉植物じゃなく、勝手にやってきて生きてるやくざな野生系でしょう?
https://www.youtube.com/watch?v=KbOCRBhdmNM
ドイツ・レクイエムの2曲目は「人はみな草のようで」
強く生きるとかじゃなくて、私たちははかなく短い命で枯れてゆくという嘆きでしょう
そしてそれへのその応答があり・・
ドイツレクイエムは死者のためのラテン語によるレクイエムではなく、今生きている人のためのドイツ語による・・なんだけどそのドイツ語すら分からなくても世の中や人間の色々が全然訳もわかんないようなこんな人間であっても、音楽が大きく深く語り伝えてくれる。

冒頭から散々打ち鳴らされるティンパニの三連音は葬送行進曲のようでもあるけれど若いブラームスの書いたものだもん、これもベートーベンからの運命主題で、こんな重く苦しく引きずるように生きることはさだめられ逃れようのない・・をいきなり全部伝えてくれてる訳でしょう?
ちょっと意外なのは作者自身による2台のピアノ版ではこの三連音が省略されてること。
あれ、これ重要と思ってたのに。
この楽章は若い作者の超絶名作ピアノ協奏曲第1番の前身だった2台のピアノのためのソナタから転用されていると言われていて、残った協奏曲の1楽章でもクライマックスで運命主題が絶大な効果を上げている。
元はピアノソナタの3番みたいな運命運命とずっと連呼してるような曲だったのかな。
この曲に魅せられ何度も何度も聴いていたのももう30年まえなのか。
興味のない人にはクラシック特に合唱が出てくるようなのは不愉快な騒音でしかないことは、かつて自分にもそうだった記憶があるのでわかる気がします。
家族にてめーは第九でもきいてろと馬鹿にされこれ第九じゃないよと思った記憶。
ついでに言うと私はテレビの娯楽番組の音声が聞こえるといら立ってしまう病気みたいなものを抱えているけれど、嫁さんの実家でニュース番組を見ていたら苛立った義母が今すぐチャンネルを変えろと言う。バラエティみたいなのが流れていないと嫌なのだろう。
いろんな人がいて一生分かりえないことは仕方のないことだと思う。
あの頃聴いたのはCDじゃなく映像付きだった。
あの時の団員はもうほとんどオケに残ってないし、この世に残ってない人も結構いるかもしれない。
直後に引退した超絶有名なソリストが亡くなったことを2年くらい前に聞いた。
合唱は音大の学生だったと思うけどみんな今何やってんだろう?
昔その演奏会について検索したらそこで歌ってたという人が見つかったことがあり、そもそも何にもなるつもりのない女性が音大に行ったりするのだという話を思いだ・・と他人についてどうこう言えるような人間に自分はなれませんでした。
でも演奏は真剣なものでかなり感動的だった。
巨大オルガンのあるホールでこれを聴いたときも素晴らしい演奏で感動的な体験だった。
録音で聴くのもいいけれどほんとはオーケストラ音楽というのは現場で体感するべきものだと思ってる。
芸大だ留学だみたいなのは反吐の出る話で聴きたくない。
素人オケでうっかり感動したことがある。
といいつつ海外オケの底力に圧倒され感動というのもあった・・
コンサートも人も嫌いなんて言って腐ってるとあっという間に終わっちまうかもな。
あと30年生きられる可能性はどれくらいあるだろうか?
こんな中身だとそこまで支えきれないのではないかとふと思う事がある。

道端は花だらけだ。
名前もなんだか知らないけど、いろんなのがきれい。
訳の分かんない私にも花がきれいなことくらいはわかるよ。

犬と散歩でもしなければこんなもんにも気づかなかったかもしれないな。
犬のおかげか。
庭に生えた雑草を抜くと嫁さんが怒る時がある。
それはきれいな花が咲くからとってあるのに・・
あほかと思う事もあるけれど確かにかわいい花が咲いていたりもする。
人から歓迎され愛でられる花みたいな存在ではない私が生きていられるのはそのおかげかもしれない。

こんな亡霊みたいに消えかかった富士山は初めて見た。
暑いとヘロヘロになっちゃうから犬の散歩も近場を歩いていると川沿いの歩道にでる。
2年くらい前だったか、この歩道の目地から雑草が生えてくるのを防ぐためにそれ用のシートをかぶせる処理がしてあった。
僅かな時間と費用で施工完了!みたいなカタログをもって役所の担当課に営業をかける人の姿が思い浮かぶ。

だけどそんなもん関係ねーやとぶっ飛ばして生えてくるスギナに笑った。
みんなに愛されるつくしが、この憎まれ排除されようとしているスギナと同じであるという事が人間界みたいで面白い。
しかしこれ担当とかの心中を色々と想像すると・・
これとは違うけど昔特殊工法を売り込むため役所を回るみたいなことをやったことがあった。
実際、戦力としては全く期待されておらず名刺を積んでくる要因になればいいや程度でしかなかったと思うけれどそんなこともわからず真剣にやろうとして。
それで、

アスファルトも斫ってこんなコンクリで完全にふさいでるところがなんだか
頭に来ちゃって徹底抗戦な感じでまた面白い。
だけど草ってこんなもんでも破ったりすんだよななんて思っていると

いた。
やってる人は真剣で、こんなもん見つけて喜んでちゃいけないんだろう。
草は草で命がけの真剣勝負だったりするんだろう。
今は全然違う業種で全然違う事をやっているけれど4月か5月になるとがちがちに緊張した若い子が飛び込み営業をかけてきたのを見て自分を思い出したことがあった。
自分としては真剣なつもりだった営業活動ではそこそこのリアクションも取れて・・と思っていたけど実際はへんなのがひょこひょこきたのを見てかまってくれたというところだったのかもな。
そうじゃなく見積もりもってこいなんて言われたこともあったけれど自分で見積もりができる段階では全くなく、持ち帰っても誰もそれを真に受けず相談もできないのでそのまま放置したりして・・

なんかこっち見て笑ってるみたいだね。
結構な成りだけど人が植えた観葉植物じゃなく、勝手にやってきて生きてるやくざな野生系でしょう?
https://www.youtube.com/watch?v=KbOCRBhdmNM
ドイツ・レクイエムの2曲目は「人はみな草のようで」
強く生きるとかじゃなくて、私たちははかなく短い命で枯れてゆくという嘆きでしょう
そしてそれへのその応答があり・・
ドイツレクイエムは死者のためのラテン語によるレクイエムではなく、今生きている人のためのドイツ語による・・なんだけどそのドイツ語すら分からなくても世の中や人間の色々が全然訳もわかんないようなこんな人間であっても、音楽が大きく深く語り伝えてくれる。

冒頭から散々打ち鳴らされるティンパニの三連音は葬送行進曲のようでもあるけれど若いブラームスの書いたものだもん、これもベートーベンからの運命主題で、こんな重く苦しく引きずるように生きることはさだめられ逃れようのない・・をいきなり全部伝えてくれてる訳でしょう?
ちょっと意外なのは作者自身による2台のピアノ版ではこの三連音が省略されてること。
あれ、これ重要と思ってたのに。
この楽章は若い作者の超絶名作ピアノ協奏曲第1番の前身だった2台のピアノのためのソナタから転用されていると言われていて、残った協奏曲の1楽章でもクライマックスで運命主題が絶大な効果を上げている。
元はピアノソナタの3番みたいな運命運命とずっと連呼してるような曲だったのかな。
この曲に魅せられ何度も何度も聴いていたのももう30年まえなのか。
興味のない人にはクラシック特に合唱が出てくるようなのは不愉快な騒音でしかないことは、かつて自分にもそうだった記憶があるのでわかる気がします。
家族にてめーは第九でもきいてろと馬鹿にされこれ第九じゃないよと思った記憶。
ついでに言うと私はテレビの娯楽番組の音声が聞こえるといら立ってしまう病気みたいなものを抱えているけれど、嫁さんの実家でニュース番組を見ていたら苛立った義母が今すぐチャンネルを変えろと言う。バラエティみたいなのが流れていないと嫌なのだろう。
いろんな人がいて一生分かりえないことは仕方のないことだと思う。
あの頃聴いたのはCDじゃなく映像付きだった。
あの時の団員はもうほとんどオケに残ってないし、この世に残ってない人も結構いるかもしれない。
直後に引退した超絶有名なソリストが亡くなったことを2年くらい前に聞いた。
合唱は音大の学生だったと思うけどみんな今何やってんだろう?
昔その演奏会について検索したらそこで歌ってたという人が見つかったことがあり、そもそも何にもなるつもりのない女性が音大に行ったりするのだという話を思いだ・・と他人についてどうこう言えるような人間に自分はなれませんでした。
でも演奏は真剣なものでかなり感動的だった。
巨大オルガンのあるホールでこれを聴いたときも素晴らしい演奏で感動的な体験だった。
録音で聴くのもいいけれどほんとはオーケストラ音楽というのは現場で体感するべきものだと思ってる。
芸大だ留学だみたいなのは反吐の出る話で聴きたくない。
素人オケでうっかり感動したことがある。
といいつつ海外オケの底力に圧倒され感動というのもあった・・
コンサートも人も嫌いなんて言って腐ってるとあっという間に終わっちまうかもな。
あと30年生きられる可能性はどれくらいあるだろうか?
こんな中身だとそこまで支えきれないのではないかとふと思う事がある。

道端は花だらけだ。
名前もなんだか知らないけど、いろんなのがきれい。
訳の分かんない私にも花がきれいなことくらいはわかるよ。

犬と散歩でもしなければこんなもんにも気づかなかったかもしれないな。
犬のおかげか。
庭に生えた雑草を抜くと嫁さんが怒る時がある。
それはきれいな花が咲くからとってあるのに・・
あほかと思う事もあるけれど確かにかわいい花が咲いていたりもする。
人から歓迎され愛でられる花みたいな存在ではない私が生きていられるのはそのおかげかもしれない。