伝えたい一心で
これも一部の人にだけ有名な話なんですが、

地図上に新幹線の文字。
でもあたりに新幹線を示すものは何もありません。
上の方に見えている鉄道は在来線で全く関係ない。
この新幹線というのは地名なんですね。
今は新幹線が走る新丹那トンネルを工事する際、その作業員宿舎がここにあって新幹線と呼ばれていた。それが地名として今でも残っている。
・・という豆知識みたいなのを本で読んだのは小学生の頃でもう35年くらい前か。
余計なことを書かせていただきますと、
この工事は新幹線よりさらに古い時代の計画で日本坂トンネルとともに戦前に着工されていました。
弾丸列車と呼ばれたその計画は下関から船で満州に連絡する・・みたいな話だったと思う。
工事は戦争で中断してしまったけれど、その後新幹線計画に組み込まれこのトンネルは生きることになった。
面白いと思うのは、まだ世間は新幹線という言葉をしらない頃からここには新幹線という言葉があったんだなという事・・

現地に行ってみるとこんな表示を今でも見ることができます。
子供のころこの話をある子にしたらそれは地名じゃなくて線路を指してそう書いてあるんだよおまえは馬鹿かみたいな反応が返ってきたのをよく覚えてる。
まぁそうなっちゃうよなと思いつつ、伝わらないもどかしさを覚えた。
彼は今どうしているかな?
こんな住宅地に家を建てていたりするんだろうな。
俺はあの時のまんまだよ今も。


マーラーの7番第1楽章の第2主題に入ったところ・・
あーこれマーラーだなーという景色です。
アクセント的前打音、あえて不一致なオクターブ、微妙にずれた伴奏の細かい音型・・
たくさんついたフェルマータにN.B.とあります。
N.B.は注意事項みたいな意味でこれがあったときは欄外を見る。ドイツ語読めないけど。
「このフェルマータは止めろという意味ではない。ちょっと引き延ばすだけである。また、drängend(せかされる・・普通は書いてあると加速すると思う・・)はフレージング上の指示であり、控えめに扱われること・・」
マーラーという作曲家のスコアを見ているとこうした文字による指示がほかの作曲家に比べて極端に多い。
それも単語じゃなくてオペラのト書きみたいに文書が書いてある。
巨大オーケストラを使った複雑で魔法のようなオーケストレーションをする作曲家というのは他にもたくさんいるけれど、文字なんて全然書いてないものだ。
このあたりがこの作曲家の大きな特徴の一つだと思う。
作曲家の枠を超え譜面を通して時空を超えた未知の現場で指揮をしようとしているのだ。
楽譜というのは音楽の骨格が書いてあるだけで肉付けするのは演奏者だ。
演奏者に言わせれば肉付けなんてしてませんただ楽譜を正しく音にしただけですというんだけど、その正しくというのが人によって異なる。そこに面白みや芸術性みたいなものが生まれるわけだ。
指揮者でピアニストでもあったマーラー。
変に馬鹿丁寧にやろうとする演奏を聞いて馬鹿じゃねーのかみたいなことを言ってるのを昔どこかで読んだ気がする。
この人はその瞬間に生まれるなにかみたいなのをすごく大事にしたと思う。
同じ公演でも毎回全く違うものを聞かせたりとかしたんじゃないかと思う。
一方、作曲家としては自分の頭の中で鳴っている自作をそのように演奏してもらいたいいう思いも強くあったし、奏者次第で全然違うものになってしまうのを誰よりもよく知っていたということでしょう。
自分の頭にあるこれを何とか伝えたいと思い、楽譜を通して指揮をしようとするマーラーをここに見る気がする。
仮に、マーラーの意図がここでうまく伝わってない演奏が生まれちゃったとしてもいいの。
ここにこんな楽譜の景色が生まれているということ自体が面白い世界で私を楽しませ考えさせてくれる。
自分の発言を相手は自分の意図と違うように受け取っていることに気付き驚くことがあります。
(私からみると)明後日みたいな方向に曲解して食って掛かったような反応が来ると情けなくめんどくさい気分になったりする。
しかしそんなことが起きるのは当たり前のことだし、誤解しそうな相手に誤解しそうなことを言うのが間違いなのかもしれない。
大人というのは仮にそうなってもうまくやれる人のことなんでしょう。
私は大人じゃないみたいだけどまあいいかそんなのは。
最近いろんな人のブログを読んでいて、多分書いた人は全然そんなことは言っていないんだろうと思いながら全く別なものを読み取っていることを自覚することがあります。
私に生きるヒントをくれているんじゃないかと思うようなことも多い。
その折角のヒントを毎回全く生かせないところが私らしさでもあるんだけれど。
物事は正しく伝わるべきなんだけど、それだけでもないのかもしれない。
音楽なんか作者も気づかなかったすばらしい世界というのがあるもんね。作者が作った世界なはずなのに。
多分これだって読んだ人によっていろいろ違って見えるんでしょうね。
これはどうでもいいけどさぁ。

地図上に新幹線の文字。
でもあたりに新幹線を示すものは何もありません。
上の方に見えている鉄道は在来線で全く関係ない。
この新幹線というのは地名なんですね。
今は新幹線が走る新丹那トンネルを工事する際、その作業員宿舎がここにあって新幹線と呼ばれていた。それが地名として今でも残っている。
・・という豆知識みたいなのを本で読んだのは小学生の頃でもう35年くらい前か。
余計なことを書かせていただきますと、
この工事は新幹線よりさらに古い時代の計画で日本坂トンネルとともに戦前に着工されていました。
弾丸列車と呼ばれたその計画は下関から船で満州に連絡する・・みたいな話だったと思う。
工事は戦争で中断してしまったけれど、その後新幹線計画に組み込まれこのトンネルは生きることになった。
面白いと思うのは、まだ世間は新幹線という言葉をしらない頃からここには新幹線という言葉があったんだなという事・・

現地に行ってみるとこんな表示を今でも見ることができます。
子供のころこの話をある子にしたらそれは地名じゃなくて線路を指してそう書いてあるんだよおまえは馬鹿かみたいな反応が返ってきたのをよく覚えてる。
まぁそうなっちゃうよなと思いつつ、伝わらないもどかしさを覚えた。
彼は今どうしているかな?
こんな住宅地に家を建てていたりするんだろうな。
俺はあの時のまんまだよ今も。


マーラーの7番第1楽章の第2主題に入ったところ・・
あーこれマーラーだなーという景色です。
アクセント的前打音、あえて不一致なオクターブ、微妙にずれた伴奏の細かい音型・・
たくさんついたフェルマータにN.B.とあります。
N.B.は注意事項みたいな意味でこれがあったときは欄外を見る。ドイツ語読めないけど。
「このフェルマータは止めろという意味ではない。ちょっと引き延ばすだけである。また、drängend(せかされる・・普通は書いてあると加速すると思う・・)はフレージング上の指示であり、控えめに扱われること・・」
マーラーという作曲家のスコアを見ているとこうした文字による指示がほかの作曲家に比べて極端に多い。
それも単語じゃなくてオペラのト書きみたいに文書が書いてある。
巨大オーケストラを使った複雑で魔法のようなオーケストレーションをする作曲家というのは他にもたくさんいるけれど、文字なんて全然書いてないものだ。
このあたりがこの作曲家の大きな特徴の一つだと思う。
作曲家の枠を超え譜面を通して時空を超えた未知の現場で指揮をしようとしているのだ。
楽譜というのは音楽の骨格が書いてあるだけで肉付けするのは演奏者だ。
演奏者に言わせれば肉付けなんてしてませんただ楽譜を正しく音にしただけですというんだけど、その正しくというのが人によって異なる。そこに面白みや芸術性みたいなものが生まれるわけだ。
指揮者でピアニストでもあったマーラー。
変に馬鹿丁寧にやろうとする演奏を聞いて馬鹿じゃねーのかみたいなことを言ってるのを昔どこかで読んだ気がする。
この人はその瞬間に生まれるなにかみたいなのをすごく大事にしたと思う。
同じ公演でも毎回全く違うものを聞かせたりとかしたんじゃないかと思う。
一方、作曲家としては自分の頭の中で鳴っている自作をそのように演奏してもらいたいいう思いも強くあったし、奏者次第で全然違うものになってしまうのを誰よりもよく知っていたということでしょう。
自分の頭にあるこれを何とか伝えたいと思い、楽譜を通して指揮をしようとするマーラーをここに見る気がする。
仮に、マーラーの意図がここでうまく伝わってない演奏が生まれちゃったとしてもいいの。
ここにこんな楽譜の景色が生まれているということ自体が面白い世界で私を楽しませ考えさせてくれる。
自分の発言を相手は自分の意図と違うように受け取っていることに気付き驚くことがあります。
(私からみると)明後日みたいな方向に曲解して食って掛かったような反応が来ると情けなくめんどくさい気分になったりする。
しかしそんなことが起きるのは当たり前のことだし、誤解しそうな相手に誤解しそうなことを言うのが間違いなのかもしれない。
大人というのは仮にそうなってもうまくやれる人のことなんでしょう。
私は大人じゃないみたいだけどまあいいかそんなのは。
最近いろんな人のブログを読んでいて、多分書いた人は全然そんなことは言っていないんだろうと思いながら全く別なものを読み取っていることを自覚することがあります。
私に生きるヒントをくれているんじゃないかと思うようなことも多い。
その折角のヒントを毎回全く生かせないところが私らしさでもあるんだけれど。
物事は正しく伝わるべきなんだけど、それだけでもないのかもしれない。
音楽なんか作者も気づかなかったすばらしい世界というのがあるもんね。作者が作った世界なはずなのに。
多分これだって読んだ人によっていろいろ違って見えるんでしょうね。
これはどうでもいいけどさぁ。
Comment
>自分の発言を相手は自分の意図と違うように受け取っているこ
>とに気付き驚くことがあります。
特にネットの発言は、どう解釈してもらってもいいくらいに思ってないと書けないですよね。かなり以前ですが、ある所(ここじゃないですよ)の論旨が二つある記事にコメントしたら、その返答に「私が言いたいのは、あなたの書くそれじゃなく、もう一つの話題の方です」なんて実に「あっさり」と書いてあり、反射的に「だったら書かない方がいいんじゃないの?」なんて思い、何気に失望したことがあります。コメントというのは面白いもので、自身にとって意表を突かれるのを楽しむものなのかも知れません。ただ意表を突かれると言っても、自身が書いたある個所に対して関心を持たれていることは確かですから。
quietplaceさん、おはようございます。
人とのやり取りって、難しいですね。
うまくやれる人もいると思いますが、みんながそうでもないみたいで。
quietplaceさんのおっしゃるように、そこを楽しみに変えられたら素敵ですよね。
ありがとうございました。